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[コメント] ニンゲン合格(1998/日)

まさか黒沢清の映画にこれほど涙させられるとは。安直に云えば「集合」と「別離」の映画ということになるだろう。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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監督本人が言明しているようにラストは『砂漠の流れ者』であるわけだが、『砂漠の流れ者』もやはり「集合」と「別離」の映画であるのだから、比することができるのは必ずしもラストだけではないだろう。しかしながら、すべての映画は「集合」と「別離」の映画であると云うこともできるのではないか。なぜなら、二人以上の人間がいれば、彼らは「集合」しているか「別離」しているかのどちらかであるはずだからだ(したがって、より厳密を期するならば、『ニンゲン合格』と『砂漠の流れ者』は「集合」と「別離」を前景化させた映画だと云うべきでしょう)。

だからそれは映画の中に限らない。現実の私たちの人間関係もすべて「集合」か「別離」かに分類しうる。それは「家族」という特殊な人間関係にあっても例外ではない。私たち現実の家族も、ときに「集合」し、ときに「別離」する。その繰り返しだ。『ニンゲン合格』はまずその事実を誠実かつ自覚的に提示している。

そしてこの映画において「別離」はきわめてあっさりと、対して「集合」は(一見あっさりとだが、しかし)劇的に描かれている。たとえば、ほとんど喜怒哀楽を表に出さないと云ってよい西島秀俊が、ポニー牧場再開の日に帰ってきた父・菅田俊に対してや、食卓において母・りりィに見せる笑顔。ブラウン管に菅田が登場することで家族全員が「集合」すること。これらを劇的と呼ばずして何が劇的であろうか。私が涙するのは劇的なものに触れたときだ(もし私の云う「劇的」がその辞書的な意味と齟齬をきたしているのであれば、それは素直に「映画的」という語に云い換えておきましょう)。

また、これは意見が分かれるところだろうが、私は「俺、存在した?」という西島の最期の言葉に非常に心を打たれた。これは夢のようにしか生きることができなかった人間の切実な、そして精一杯の呟きなのだ。西島の演技はそれを十全に表現していると思う。

ところで、黒沢の映画が人によって好き嫌いの分かれるものであることはさすがの私にも分かるけれども、しかし彼が映像(映画内映像)の使い方と完成度にかけては現代映画界トップクラスに位置するということは衆目の一致する(しうる)ところではないだろうか。本作や『回路』におけるニュース映像。『蛇の道』のヴィデオ。『CURE』や『LOFT』に登場する一〇〇年近く前の記録フィルム。どれも映像内の出来事と映像を見る者との間の時間的空間的な距離が無化されるように、または無化されることで逆説的にその距離が顕わになるように用いられている。まったく見事だ。

(評価:★5)

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