[コメント] ミスト(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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脅威にいかに対処するかというサバイバル・パニック映画の場合、主人公が取るべき戦略は彼の持つ有形無形のリソースによって変化する。『宇宙戦争』でトム・クルーズ一家が自動車や家屋に避難することで防御し得たのは、物理的境界がシールド=盾のメタファーであるからだ。とりわけ繰り返し登場するモチーフであるガラスの、その透明性と隔離性、脆弱性は様々な想像を掻き立てるものであった。
ただ、いずれにしろスピルバーグはそのシールドを信頼しており、それはつまり人間の良心への信頼であるから、離散家族が再開するというあのエンディングになるのだ。
ダラボンが描く「審判の日」は、このシールドへの強烈な不信を隠そうとしない。スーパーの裏のシャッターは不透明、正面のガラス越しも霧で様子が伺えず、果てにあっけなく破られてしまう。
物理的境界だけではない、スーパーに集う人間関係もまた無残に壊れるのだ。ここでおもしろいのは、人間ドラマのベクトルが生存競争からくる政治的なパワーゲームではなく、理性を捨てたエゴイズムや生理的嫌悪感、狂信的ヒステリーや厭世感に満ちているところだ。
もっとも、人物造形からして紋切り型の個性の集合体に過ぎず、現実を生きているキャラクターが誰一人いないのだから、リアリスティックな人間ドラマにはなっていないのだが、監督がテレビドラマで組んだという撮影班を起用し、ある種白々しい再現ドラマ風の空気感を出していて、これはこれで狙いとしていいと思う。
ただし、5人がスーパーから脱出してからは疑問符がつく。霧の中、サーチライトを照らして進むランクルは、やっぱりスピルバーグを意識しているな、という画だったが、シールドや関係性を破り続けたダラボンは、そこまでするかという一線も越えてしまう。
集団自決、とりわけ父が子を射殺するというエピソードはどう考えてもあり得ない。映画は倫理や道徳を描くものではないから、どんなことをやってくれてもいいのだが、これをやらないで伝えるのが一流、やっちゃうのが三流、そう言われても仕方ないと思う。テーマだけを近視眼的に見据えたエンディングは演出もまた凡庸だった。
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