コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] グローリー(1989/米)

黒人を一人前の兵士として扱う厳格な態度が、却って、白人による強圧的な支配に似てしまう葛藤。それ故に、死を賭けることが「Glory」をもたらすこと。また、オバマの大統領就任によって、或るシーンの意味合いが永遠に変わったように思う。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







そのシーンとは、トリップ(デンゼル・ワシントン)がテントを共にする連中と初顔合わせするシーンで彼が発する、一つのジョーク。逃亡奴隷である彼に「これまでは何をしていた?」と一人が問うと、トリップは「大統領選に出てた。落ちたけどな」。そしてテント内に爆笑が起こる。このジョークには、黒人がいっぱしの兵士として扱われるようになりつつある状況にあっても、黒人が白人と同等の権利をもって大統領選に出ることなどは考え難い現実へのアイロニーがある。今このシーンを観ると、現実に黒人が大統領選で当選する現代へと至る長い道のりの第一歩として、この『グローリー』の時代が浮かび上がり、感慨もひとしおだ。

南軍から「軍服を着た黒人、それを指揮した白人は処刑する」という通知が出た際、「去る者は明朝までに去れ」とロバート(マシュー・ブロデリック)が告げた翌朝、一人の脱落者も出ていないのを見て彼が呟く「Glory,Hallelujah」。これは北軍の行進曲"リパブリック讃歌"の歌詞の一節でもある。このシーンでまず、「自らの意思をもって、軍に一身を捧げる」という、黒人たちの一個の人間としての主体性が示される。尤もそれは、支配階級である白人たちの起こした戦争に二者択一的に従わざるを得ない状況に拘束されての、「従属」と表裏一体の主体性なのかも知れないが。

南北戦争に於ける「黒人たちの軍隊」という設定が描き出すのは、鞭打つ、罵倒する、命令者としての立場を徹底して堅持する、といった、軍隊に於いては必須なのであろう態度が、図らずも黒人に対する白人の差別と似てしまうということ。更には、略奪行為や焼き討ちといった野蛮な行為さえも、「兵士」としての務めとして命じられる。そして、命令者である白人はその様子を見て言うのだ、「あれを見ろ、まるで猿じゃないか」。この行為によって自分たちが汚れてしまったと感じるトリップは、ロバートから旗手の名誉を与えられても、闘いに身を捧げるのはいいが、旗は持ちたくないと拒絶する。「Glory」として信じられる旗ではない、だが一兵士として命を賭けねば、ただ徒に鞭打たれ罵倒され命令されるだけの存在になってしまう。だから、旗は拒んでも、闘いには身を投じるのだ。

トリップの反抗的な態度は、奴隷として虐げられていた反動であることが、その言動の端々から窺い知れる。だからこそ、靴を求めて兵営を離れた罰で鞭打たれている時、命令者ロバートを睨みつける目から涙が落ちたのだ。そしてその反抗心もまた奴隷としてのものでしかないからこそ、ジョン(モーガン・フリーマン)から「ここにニガーはいない。お前だけだ」と諭されると、途端に大人しくもなるのだ。

ゴスペルを歌いながら互いを鼓舞し合うシーンは、苦渋を舐めてきた黒人たちの過去と誇りとが握り拳のようにグッと凝縮されているような熱さを感じさせる。それまでの戦闘シーンで、その苦痛に満ちた残酷な現実がしっかりと描かれていたからこそ、そこに明日は身を捧げることの悲惨と栄光とが、切ない熱気として滲み出るのだ。

マシュー・ブロデリックの幼顔は、指揮官としての説得力にまるで欠けるのだが、むしろそれ故に、彼のような者が黒人たちの上に立つという白人優位の現実や、部下たちを陰惨な戦場に送ることへの逡巡と、その反動としての、過剰なまでの厳格さ、或いは、備品横流し野郎の許に踏み込む行為、黒人たちの給与が少ないことへの彼らの怒りに同調して、自らも給与を拒むシーンなどでの、自らの闘争心を奮い立たせる健気さが際立つ。そしてそれらは全て、黒人たちとの関係性として描き出されるものなのだ。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)ありたかずひろ

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。