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[コメント] ウルトラミラクルラブストーリー(2009/日)

野菜栽培のヘルシーさと、農薬のケミカルな毒々しさ。半ば理解不能な津軽弁も物語を追うのに支障が無い程度には理解できる絶妙さ。観客は町子(麻生久美子)と共にその言語宇宙の洗礼を受ける。理解不能と可能の絶妙さは「ストーリー」にも表れている。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







野菜を栽培する青年の名が「水木陽人」(松山ケンイチ)、東京から田舎へやって来て、カミサマ(藤田弓子)の託宣に耳を傾ける女は「神泉町子」(麻生久美子)。町子の事故死した恋人・要(ARATA)は、人体の「要」でもある首がトラックに乗ってどこかへ運ばれ、トラックに野菜を載せて売り歩く陽人は、自らの畑に首から下を埋めて農薬を浴びる。農薬で頭がスッキリした陽人は熊と間違われて撃たれ、町子は彼から託されたホルマリン漬けの脳ミソ(キャベツと似ている)を熊に投げつけ、熊、それを喰う。完結。と、不条理でありながらも或る整然とした構造に沿って展開する物語。何もこの作品に限らず、ナンセンスと抽象的論理とは得てしてこのように表裏一体なのだ。

陽人の死に際して祖母と医師(原田芳雄)が淡々とした態度でいることと、その後の、心臓が停止しているにも関わらず生きている陽人。フラットさとシュールさとの相補関係。それは首無し男・要のごく普通な台詞回しにもよく表れている。またショットの在り方にも表れていて、陽人がハイテンションに駆け回り跳び回り暴れ回っていても、カメラはその行動の共犯者とはならず、淡々とした観察者でいる。陽人の多動性と、その周囲の空白的空間との距離感。この二つが相俟って本作のテイストを成している。フラットであるが故に、園児たちが主要人物たちの会話にかなり大胆に介入する形でワイワイ騒ぎ立てるエネルギーが、そのまま活きることにもなる。

陽人と町子の、歩きながらの長い会話シーンがワンカットで撮られているのもまた、フラットな演出の一例。カットを割ると、カットとカットの間を補完するという形で、観客が幾らか画面に参加することになるのだが、ワンカットによって、カメラと共に観客も観察者に徹することになる。夕方の会話シーンでは、右から左へと歩きながら、画面奥に路が伸びて画面に奥行き感、解放感が出たところで二人が別れる。夜の会話シーンでは、左から右へと歩きながら、町子が「恐怖による進化」の話をし始めた辺りで画面奥で花火が発射され、一瞬会話が途切れた後「しょっちゅう戦争が起こっている状態に人が置かれたら、次に生まれてくる子らは戦争なんてしないんじゃないか」といった台詞が続く。何か意味ありげなシーンではあるが、陽人が農薬で進化(?)することと関係あるのか無いのかよく分からないシーンでもある。陽人はむしろ恐怖心が無いせいで農薬などを浴び続けていたわけだが。横浜聡子の脳裏では、農薬散布ヘリによって『地獄の黙示録』への連想でも働いていたのだろうか。

カミサマは要について、町子にこう言っていた。「この人、空っぽのまま死んじゃって可哀相ね。でも、私ら皆、空っぽだからね」。町子へのラブに駆られて心臓を停止させ、脳ミソまでカラになった陽人。空っぽという点では首無し要と同等であり、故に二人が会話を交わし靴を交換するのは当然ということにもなる。町子と園児たちが陽人の脳ミソでハンカチ落としをするのも、「皆、空っぽ」だから脳ミソも交換可能ということでもあるのだろうか。そうして、草叢から出てきた熊が喰らうという形で自然へ還っていく脳ミソ。自然と人為の媒介としての農薬が紡いだ物語に相応しい、毒々しくも清々しい結末。

(評価:★3)

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