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[コメント] 路上のソリスト(2009/米=英=仏)

「声」と「音」を巡る二人の男の物語。タイトルの入り方にも見られるちょっとしたセンスが好ましいが、必ずしも全て成功しているわけではない。更に、肝心の演奏が大して響いてこない出来だという痛恨事。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ナサニエル(ジェイミー・フォックス)が、夥しい座席の並べられた場所で座っているシーンが三度現れる。ジュリアード時代に教室で、他の学生らの会話を横目に孤立しているシーン。演奏会に招待されたナサニエルが、ロペス(ロバート・ダウニー・Jr)と並んで座り、リハーサル演奏に耳を傾けるシーン。そしてラストのコンサートホール、他の多くの聴衆と共に、ロペスの元妻(キャサリン・キーナー)も一緒に並んで座っている姿。

このラストと対照的なのが、ナサニエル自身が演奏家としてステージに立つシーン。客席のロペスの存在も何の助けにもならず、混乱したままナサニエルは逃げ去る。ここではロペスは、公の舞台に立ち、脚光を浴びるべき存在として、ナサニエルを見ている。だがラストでは、一緒に並んで同じ方を向く関係となっている。

リハーサル鑑賞シーンでの、音楽に合わせてナサニエルの脳裏に浮かぶ色とりどりの光。普段、音楽に聴き入りながら目を閉じている時に、瞼の裏に抽象的なイメージが浮かんでは消えることがよくあるが、その感覚を思い出させてくれるシーンだ。このシーンはまた、音楽への愛というものは個人的なものであり、公の場で名声を得ることとは無関係なのだと言外に示していもいる筈。その意味でこのシーンもまた、ラストの伏線と言っていいだろう。

この脳裏の光に対応していると思えるのは、支援センターのシーンで或る女性患者が語る「心の声」。彼女は、薬を飲むとこの声が聞こえなくなるのだが、自分はむしろこの声に励まされることもあるのだ、と訴える。センターの責任者であるデヴィッド(ネルサン・エリス)は言う。「診断なんて役に立たない。不要なのは、『診断が必要だ』と言う人間だ」。

ナサニエル自身にも、この種の幻聴が聞こえていたのだが、それが起こったのが、ジュリアードでの練習中でのこと。つまり音楽が個人的なものではなく、集団的なものとして求められる場だ。ナサニエルが室内での暮らしを嫌がるのは、静寂の中よりも、街の雑音に包まれている方が落ち着くからだというのだが、彼が道路脇で演奏していたのも、その場所の雑音には、人の言葉のような意味が伴わないからなのかも知れない。彼自身、非常に饒舌なナサニエルは、一人で部屋に閉じこもっていては、自分の内側の声に圧倒されてしまうのだ。

一方ロペスは、人の言葉をボイスレコーダーに録音し収集する記者。彼が、支援センターの前に停めた車の中で、車体越しに微かに聞こえる、路上生活者らの話し声に包まれているシーンは、本作の「音」の演出の中でも特に印象的な一場面。ロペスにも、ナサニエルのように、人の言葉(=社会性)から自らを一度遮断する時間が必要だったのではないか。だからこそ、周囲の騒音を鎮めるナサニエルの音楽に、ロペスが魅せられたのだとも思える。自分にはあんなにも何かを一心に愛することは出来ない、と元妻に語るロペス。この「愛」は言い換えれば、脳裏の光のシーンのような、純粋な非-意味に浸り続ける感性だろう。

だが、肝心のナサニエルの演奏が、それほど優れた演奏だとは感じられなかったのが痛い。何というか、音が緩い。演奏者が弦に込めた情念によってピンと張った緊張感や純粋さが乏しい。これを聴いたロペスの解放感を演出した、鳥と共に街を飛んでいくシーンで、ナサニエルが弾くチェロが含まれていないパートが使用されているのも、よく分からない演出。やはり、あのチェロの重く鈍い濁った響きでは解放されないことが、演出家にも分かっていたのではないか。

検査用に尿を採取している最中にケータイが鳴って焦って滑って小便まみれとか、害獣駆除用のコヨーテの尿をビニール袋に入れた木に吊るそうとしたら漏れて焦って袋が破れて尿まみれとか、微妙にずれた露悪的なユーモアセンスには辟易させられた。特にコヨーテのは何か画面から臭ってきそうで、勘弁してほしい。

(評価:★3)

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