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[コメント] オーストラリア(2008/豪=米)

砂漠の乾いたカラフルさが目に鮮やか。光が眩しい。が、ニコール・キッドマンの大仰なコメディエンヌぶりが、全てを他愛ない「お話」の域に。ドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)は、逆に安定しすぎだ。腫れ物に触るような人種差別への扱いも幼稚。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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このサラ(キッドマン)のような、昔の映画のゾンビみたいなのが笑ったり泣いたりしても、心底どうでもいい。意図的にそうしたのだろうが、作劇自体が古臭い。今から見れば古典的なスタイルの映画といえど、制作当時はそれがアクチュアルな振る舞いであったからこそ為されたのであり、それを単にノスタルジックになぞるだけでは仕方がない。フランソワ・オゾンの『エンジェル』のように批評性をもって擬古典的な演出を試みるなら意味はあるが、本作はその懐古趣味が、政治的な鈍感さと表裏一体となって、過去の植民地政策の歴史を、悪者をやっつけてメデタシ、という幼稚なお話として処理してしまっていて不快。

オーストラリアが過去に行なった植民地政策と真っ向から向かい合った――ように一見すると映じるが、キッドマンの嗤うべき芝居がかった芝居同様、「お話」の枠の中にちょっとアボリジニも入れてみた程度の話でしかない。勧善懲悪のお話の約束事に沿っていくだけでしかなく、差別を行なう登場人物を見ても、フレッチャー(デビッド・ウェナム)は頭のてっぺんから爪先からまでキレイに悪役で、後はその周りで老婦人が「まっ」みたいな呆れ顔をサラやドローヴァーに向ける程度。「黒人は入るな」という言葉に始まる酒場での大喧嘩なんかもあるが、どうということもない。

唯一、日本軍の空襲を受けて破壊された酒場での、この期に及んでなお「黒人は入るな」と言う主人と、黒人の義兄を連れてきたドローヴァーの「まだそんなことを?」とか「グラスが一つ足りないぞ」といったやりとりに、差別意識という見えざる壁にじかに触れて対決する心理ドラマが見られる。このシーンでの、立場も考えも異なる三者の「共に酒を飲む」という行為が達成したものを無言で語る、テーブル上のグラスだけを捉えたカットが印象的。これも新奇な演出とは言えないが、こうしたドラマにこそ力を注ぐべきだったのではないかと思える。

結局、後知恵で「当時の差別は不当だ」という前提から、「差別」を悪役に担わせて厄介払いしているだけなのだ。ではその不当な行ないがなぜ当時は常識であったのか、や、そうした常識の中で、家庭や職場では平凡な善人として暮らしてもいたであろう白人たちがどんな意識を抱いていたのか、という、オーストラリアの精神史、生活史の一部としての差別と向き合う姿勢がまるで見られない。差別の主体としての白人が描かれておらず、差別主義者は「お話」の背景として機能するだけだ。サラは世間知らずの気位だけ高い女という典型的なキャラクターとして登場するが、そんな彼女がアボリジニらと交流していく過程などまるで見えてこない。ナラ(ブランドン・ウォルターズ)の可愛らしさと、彼を平気で殴りつけるフレッチャーの悪役ぶりが、サラをいつのまにか反差別者の立場に置いているだけ。この辺に、『グラン・トリノ』の偉大さと本作を隔てる壁がある。

「白人を駆逐する」と言っていたナラの祖父・キング・ジョージ(デイヴィッド・ガルピリル)が白人殺害の容疑者に仕立てられるという筋書きも、もう少しミステリーとして巧く演出できなかったのかと思うが、もう一つ疑問に思うのは、この老人が実際は冤罪でしかなかったことで、彼が表明していた(といってもナラの台詞による間接的なものだが)、白人に対する敵対心が雲散霧消されてしまったこと。アボリジニは差別の被害者として無垢な存在として扱われるのだが、それも一種の差別というか、アボリジニであろうと人間であるのだから、自らの生活環境を脅かしてきた連中に対し、殺意のようなものを抱く人もいてもおかしくはない筈。怒りや憎しみというものも、人間性の一部だろう。白人側としては、自分らに向けて憎悪の念を向ける先住民なんてものを想定してしまえば、そこに生じざるを得ない緊張感の処理の仕方に困るのだろうが、その生々しさを回避するのは偽善的に思える。

第一、サラらも元々アボリジニが暮らしていた土地に侵入して来た白人入植者の一部には変わりないのに、その辺りは完全にスルーして善玉扱いというのも、プロット云々以前に世界観そのものがご都合主義に過ぎる。ラストでキング・ジョージがサラの許からナラを連れていく、という微温的な決着のつけ方には、土地を奪われた側としてのアボリジニの視点が欠けている。この老人の闘争は、ナラを射殺しようとしていたフレッチャーを、即席で作った弓矢で殺すという形で決着してしまい、白人の悪はフレッチャーが全て担って紋切り型の結末で処理される、という安易さ。

砂漠の貯水タンクという光景にはつい『バグダッド・カフェ』を想起してしまうが、そちらで描かれていたようなコミュニケーションの繊細さは、本作には皆無。本篇の前後と、エンドロール後の字幕に、神経質な政治的配慮が見られるが、恐る恐る突っつくような及び腰では、テーマを真正面から扱ったとはとても言えない。日本軍がちゃんと日本語を喋っていたのは安心したが(日系人が訛った日本語を喋っているケースが時折見られるので)、その程度の最低限度の礼節を守ったというに過ぎない映画。

外に雨が降りしきる中、ナラが顔を塗り黒人を装って映画館で見ている『オズの魔法使い』のワンカット、ドロシーが赤い靴の先を合わせる画の、瞬間的な美しさ。雨をしのぐ小屋としての映画館の安心感と、スクリーン上に展開する夢見心地とが相俟って、妙に心に残る場面だ。

(評価:★2)

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