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[コメント] 大阪ハムレット(2008/日)

「ハムレット」と題しながらも、人生の葛藤を徒にハムレット的に深刻化することを避け、「悲劇」の「面白さ」に淫しない抑制には好感を抱いたが、反面、登場人物たちの葛藤を作り手側が充分に受けとめることまでをも回避しているような印象も。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最も気になったのは、映画のクライマックスでもある、三男坊・宏基(大塚智哉)がヒロインを演じた「シンデレラ」の劇。それまでの場面で彼は観客に向けて「女の子」としての可愛らしさを発揮し続けていたので、このシーンで初めて「女の子」としてクラスメートや家族以外の他人の前に現れることの意味を画としてきちんと演出しておく必要があった筈。それが充分に為されてないせいで、「女の子」としての宏基に客席の人々が示す拒絶感が、取って付けたように見えてしまう。結果、ドレスに着替えて化粧してダンスシーンを演じる宏基が客席から受け入れられていくシーンが、唐突で、嘘くさくなってしまった。客席の人々は、「その他大勢」的な記号、画面の中で生きる登場人物としての内発性ではなく、脚本の都合によっていかようにも動く駒でしかない。

例えば、宏基がシンデレラを演じるシーンで、舞台側からのショットによって舞台と客席を同時に捉え、見知らぬ他人の前で初めて「女の子」としての自分を見せる宏基の緊張感が観客にも共有できるようにされていれば、とも思う。そうすれば、ダンスシーンでは逆に、客席側から宏基の奇麗な姿を撮ることで、客席の人々の見方の変化を「画」としてもう少し納得のいく形に出来たのではないか。僕がこんなことを思いついたのは、『ラスト、コーション』の劇上演シーンで用いられたショットの記憶があるからなんですが。

また、この宏基の闘いと並行するシーンでの、長男・政司(久野雅弘)による、恋人・由加(加藤夏希)のおんぶ。このシーンで、宏基のシーンと同じように「他人の視線」が捉えられず、政司と由加ばかりをカメラが捉え続けるのには違和感を覚えた。ようやく駅のホームで周囲の他人から声がかかったかと思うと、「若いモンはええなあ」風の台詞で既に受容されている。第一、加藤夏希は可愛らしすぎて、由加の幼児性に観客が違和感を覚えることは殆ど無いだろう。結果、そのいまだ精神的には指吸いが止まらないような由加との関係に対する政司の戸惑いと、それとの闘いも見えてき辛い。結果、二人で旅館に泊まって布団を共にしながらも絵本を読まされて終わりなシーンの優しい哀感も、いまひとつ際立ってこない。幼児化した加藤夏希に絵本を読んでやる……、普通に幼児プレイとして愉しいシーンになってしまってやしませんかね。

違和感が無さすぎることの違和感。本上まなみが姉・松坂慶子からも「変わった子」と呼ばれていながらも具体的にどの辺が変なのか描かれないのは別に構わないのだが、本上もやはり、普通に美人すぎる。彼女が棺おけにゴスロリな格好で入れられている姿は、もっと「何だかなぁ」な印象も含みつつ、奇麗なお人形であろうとする彼女の切なさが胸に沁みるシーンであってほしかった。割りと普通に「アリ」な格好に見えてしまっては、葛藤が無さすぎる。『ララピポ』の村上知子までいってしまうと却って、違和感を傲然と無視するふてぶてしさが出てしまうだろうけど、その中間の微妙な所に収まる女優がいないわけでもないだろう。

大阪弁の方がナマな情が宿るという捉え方は、標準語で物を考える人たちの勝手なオリエンタリズムに過ぎないと思うのだけど、そのナマさを最も担わされている次男坊・行雄(森田直幸)が防波堤の上を歩きつつハムレットを大阪弁で暗唱するシーンは、標準語的なものを崩すという形で、確かに活字から言葉の身体性を奪還しているようには見える(川上未映子がブログに載せた「フラニーとゾーイーでんがな」を思わせる)。全く興味の無かった本を、妙なきっかけで手に取り、そこに、自分自身の言葉に翻訳し直したいものを読むという、或る意味、本との出逢いの理想形かもしれない。

生活の実感としては、やはり『きょうのできごと』の関西弁の何でもなさこそがリアルに感じられるんですけどね。

(評価:★3)

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