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[コメント] キサラギ(2007/日)

鑑賞中には事の真相について考え、鑑賞後は‘アイドル’との関係性について考えた。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







登場する五人のヲタクたちは、それぞれがヲタクとしての‘イタさ’を持っているのだが、香川照之の他は最初からイタさが大して目立たず、最終的には彼らのイタさは全て浄化されてしまう。

‘オダ・ユージ’は、言動がいちいち四角四面で、なおかつ偏執狂的な緻密さで事の真相を調査してくるが、それは実は、マネージャーとしての義務感や罪の意識に基づいてのもの。

‘スネーク’はやたらとハイテンションで、頭の働くオダ・ユージの言葉に便乗してばかりいる軽薄な人間だが、如月ミキとは実際に友人だった。

‘安男’は、腐ったアップルパイや、全然「トレンディ」でない服装に表れるような、自覚せざるキモさ溢れる人物だが、如月ミキとは幼なじみで相談相手だった。

‘苺娘’は、家宅侵入及び窃盗及び勝手に部屋の片付け、という最高に気色悪い行為をした男だが、全て、父親としての思い余っての行動となれば、概ね納得のいく行為という事になる。如月ミキが父親を拒絶していたのならともかく(勝手に娘の幼児期のビデオを販売した、某有名歌手の父親みたいにね)、彼女は、その父に自分の姿を見せる為に芸能界入りしたのだ。彼が、オダが語る‘真相’に耳をふさぐのは、犯人であるが故の罪悪感か?と観客に疑わせるが、それも父親としての心痛の表れだったわけだ。

‘家元’だけが、最後の最後まで純ヲタク的存在。だが、ファンレターを大量に送り続けるという、こちらをドン引きさせてくれる行為もまた、当の如月ミキには不快どころか心の支えだった事が推測されるに至る。彼は他の四人のように、ただのヲタクであるに過ぎないという矮小さからは浄化されないが、却って、ただのヲタクであるが故に、如月ミキによって天に昇るほどの浄化を受ける特権を得るのだ。D級アイドルという矮小さと、ただのファンという矮小さが互いを支え合うような、究極のプラトニック・ラブ?尤も、如月ミキが彼の為にクッキーを焼いていた、などという話は、やや出来すぎな気もするのだけど。

さて、こうして、ヲタクが本来は宿業の如く担うべき気色悪さが全て浄化されきったからこそ、最後のヲタ芸(アイドルの歌と踊りに合わせた、かけ声と振付)を、僕らは温かい気持ちで見守れるわけだ。このヲタ芸というのは、アイドルの芸に積極的に干渉して、彼女の声や動きと一体になろうとする欲望の表れであり、だからこそ、傍目で見ているこっちは引いてしまうのだ。アイドルとファンの間に厳然としてある‘距離’に無自覚な熱狂ぶりが、滑稽でもあり、不気味でもある、と。その‘距離’が、この五人の場合、実際には無かったのであり、だから最後は爽やかな気持ちで観ていられる。

そうした意味では、最後に宍戸が全てを引っくり返したように見えるのは、‘如月ミキの死の真相’という点においてであって、如月ミキに対する五人の関係そのものは、何も変わらないように思える。だから宍戸の登場は、‘今さら’で‘蛇足’の観がある。この印象を拭うには、あの五人が、真相を追い続ける事で、ずっと如月ミキと関わり続けていたい、という飢餓感をどこかに匂わせている必要があった。プラネタリウムに思い出を投影、などと満足感を表現していては仕方がない。星と星とをつないで、そこに存在しないイメージを結ぶというロマンチシズムに、彼らの真相追究への思いや、一期一会の出逢いを表現したかったのかも知れないが、この場面で一気に、それまでの劇としての緻密さが弛緩して、感傷に長々と付き合わされる羽目になったのは、なんとも残念。

最後の如月ミキの顔バレは、僕はアリだと思った。五人がそれぞれ自分の知っている如月ミキについて語り尽くす過程で、観客の中にひとつながりの如月ミキ像が出来ていた筈。顔が出てこず、こちら側が勝手にイメージを投影し得る存在としての虚像から、生身の体を持った実在の女の子になるのが、あのライヴ映像なのだ。これが無ければ画竜点睛を欠く事になるし、焼死体という悲惨な姿(生前の姿を失う形)で死んだ彼女を悼む終幕にもなり得なかったように思う。

それにしても、上で家元だけが純正ヲタクとして特権的に浄化されたように書いたが、それは飽く迄、この映画の中の世界に関しての話。とりこさんのレビューを読んで、他の四人もそれぞれの形で、ヲタクの夢を担う存在だったのだと感じた。

彼らがそれぞれ、如月ミキの死について罪悪感を抱きたがっているのも、もう帰ってはこない、かけがえの無い存在を、自分の個人的な関係性に回収したいという欲望の表れだ。だがそれは、考えてみれば、劇中の台詞にある「自分の手の届かない存在を、殺す事で手中に収めようとする」ストーカー殺人の心理と、似ていないだろうか。例えば安男が「無理にでも故郷に連れて帰るべきだった。ミキもそれを望んでいた筈だ」というのも、彼にとって手の届かない存在になった如月ミキを奪還したい思いからの解釈かも知れず、彼女自身の思いは、死人に口なしだ。

勿論、彼らの、例えばゴキブリの殺し方を電話で教える、といった他愛もない善意には何の毒も含まれていないのだけど、オダの「売れてほしい」や苺娘の「見守っていたい」や安男の「純朴なままでいてほしい」やスネークの「親しく話していたい」や家元の「手紙を読んで、存在に気付いてほしい」等々の思いが極端に高まったものが、ストーカー心理なのではないか。焼死という禍々しい死に方がそうしたうがった見方を僕に強いるのかも知れないが、そうした奥を考えさせる要素も含む脚本ではあった。それが、脚本としての美点か欠点かは、見方によるだろうが。

とは言え、彼らの各人各様の愛情は、如月ミキ自身が求めたものでもある――この映画を見る限りでは。最終的には、この五人はファンの集まりではなく、それぞれが如月ミキとつながりを持つ男たちの、小さなコミュニティとなる。家元は、途中から‘虫けら’として蚊帳の外のようになるが、最期まで如月ミキに‘アイドル’としての実質を与えているのは、家元だけなのだ。

この映画で‘虚像’とされるのは専ら如月ミキだが、実は五人の男たちも、その実像を隠している(家元すら警察関係者である事を隠していた)。それが全て剥がれた後、不在の中心たる如月ミキの顔が露わになるのは必然性がある。単に謎が解消されるのではなく、素の人間としての彼ら彼女らの思いが開放されるのが、あのヲタ芸なのだ。

この意味でも、やっぱり宍戸は蛇足かな、と。彼が如月ミキの死の謎と、自身と彼女との関係という二つの謎を抱いたまま観客の前から姿を消す事で、色んな意味で‘持っていっちゃった’印象が強い。・・・・・・まぁ、この映画のレビューで「宍戸」が悪の記号みたいになっているのは、宍戸本人には責任の薄い所ではあるので、気の毒に思わなくもないんですが(笑)。ただ、こんな大物を特別出演という枠で出してくるよりは、無名の役者をキャスティングした方が、最後のどんでん返しの意外性が強まったような気もするけど。

果たして五人は、ファンとして浄化されたのか、それとも、単なるファンである事から浄化されたのか。宍戸は、彼らの愛情が浄化されたという思いへのアンチテーゼとして登場したのか。少なくとも、全ての伏線がピタリとはまった、という観客の気持ちは、再び割り切れないものにされてしまい、映画としての宍戸の必然性さえも、曖昧なまま放置プレイ。

(評価:★3)

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