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[コメント] ハンニバル・ライジング(2007/仏=英=米)

耽美的映像で綴られる濃厚かつ残酷な美食家の高貴さと、奇矯と思えた日本文化の挿入が意外に倒錯的な必然を帯びている点に惹かれた。『羊たちの沈黙』の不条理な恐ろしさと対照的な、全てが一対一対応の因果性を暗示しながら繰り広げられる整然とした殺戮劇。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前作『ハンニバル』は、題名が『ドラキュラ』や『ランボー』と同類なことからも覗えるように、文体、内容共に一気に俗化した原作小説に呆れ果てた。尤も、単なる娯楽としては依然として面白いのだが。故に、本作の原作だけは未読。

『ハンニバル』の原作小説で既に描かれていた、レクターの過去のトラウマに絡む物語が、より詳細に描かれる。『羊たちの沈黙』に於いてアンソニー・ホプキンスのカリスマ的演技が造形したレクター像は、その後『ダークナイト』のヒース・レジャーが現れるまでは余人を寄せつけない卓越した悪として君臨していたのだが、食人鬼となった理由付けとしての過去が浮上したせいで、人間レベルに堕とされた嫌いがある。独特の美意識を持ち、侮蔑すべき相手と見做せば悪魔のように喰らいつくレクターの内面の深層は、空虚であるが故に底知れぬ深淵によって人の心を凍らせていたが、「妹が食われた」という、血と肉の温かみのある物語の付与によって、彼の怪物性は著しく損なわれた。

かつては、単なる嗜好に基づいて、平然と人を喰う者として描かれていたレクターは、文字通り「人を食った」キャラクターとして、神とは正反対ながらも超人間的な存在として異彩を放っていた。「嗅覚」という、最も本能的かつ常人に於いては無意識的な感覚に敏感で、匂いをヒントに様々な推論を整然と構築するレクターは、生々しい最下層の本能を、高度な知性と結び合わせる、独特な哲学の実践家とも呼び得る存在だった。だが本作では全てが人間的、あまりに人間的な領域に囲い込まれる。ハンニバルの行動も、以下に分析していくように、因果応報的な一対一対応の必然性で起こされるもの。

尤も、今回、ギャスパー・ウリエルの冷たい美貌を得た新しいハンニバル像も、これはこれで気に入った。彼が青年ハンニバルとして初めて姿を見せたシーンでは、あまりに地味な印象で一瞬不安が脳裏をよぎったが、自身に向けて繰り出された手にフォークを突き刺すことに始まり、人を殺傷していくにつれて見る見る顔に輝きを増していく辺りが素晴らしい。終盤に於いて、自らも知らずに妹の肉を口にしていたことを知った際の、苦悶に歪む顔によってその悪の美は一度崩れてしまうが、ラストシーンで再び現れたときには、貴族的な完璧さを取り戻している。

殺しのシーンで「バイバイ」と手を振るのは『ハンニバル』の原作にもある描写だが、口笛を吹くのはホプキンスの演技によって追加された要素だった筈。ホプキンスの演技に倣い、それを想起させる演技によって造形された青年ハンニバル像。だがそこに、青白く醒めた美を加え、スマートな残酷さに輝くハンニバルを産み出した点は一つの功績と思える。

妹に絡むトラウマは人間的に過ぎるのかも知れないが、反面、そうした人間的な情念と格闘し、更にはそれによって磨き抜かれることで、非人間的な美を獲得していくハンニバルの物語、という側面も有する映画。人間的なドラマを描きながらも、それを超えていく表層の美の成長物語と見るならば、同監督の『真珠の耳飾りの少女』とも通底する作品と呼べるのではないか。

人間を優雅に料理して食ってしまう食人鬼という性格上、ハンニバルがナイフを器用に使いこなすのは必然的なのだが、「刃物で人を斬る」という行動に精神性なり貴族性なりを付与するものとしては、武士道の他には考え難いだろう。一見すると無茶な和洋折衷だが、実は必然的なのだ。所謂「人斬り包丁」を神聖視し精神性を求める日本文化の倒錯性を露わにしているようでもあり、面白い。首の無い肉屋の遺体を検死するシーンでは、刀の手入れに使う丁子油の匂いを刑事が嗅ぎつける。ここで丁子油について、歯科の治療に使われる薬だと語られているのがまた、人間の体を切り裂くものとしての刀と歯が結びつくことで、最後には敵の頬肉に直接喰らいついていたハンニバルの食人鬼性を予告しているのではないか。

紫夫人(コン・リー)が人種差別的な侮蔑を受けたことが、ハンニバルの最初の殺人をもたらしたことや、彼女の、ハンニバルの犯行に戸惑い咎めながらも手助けをしてしまう立場、また最後には、背後からハンニバルに迫る敵を、自らの手で喉を切り裂いて殺しながらも、一方ではハンニバルの愛を拒むことで彼を完全にモンスターとして解き放ってしまうことなど、紫夫人は、聖母的存在であることで、却って殺人鬼を作り上げてしまう。彼女のその両義性が武士道と結びついていることで、人を優雅に切り裂くモンスターとしてのハンニバルに根拠を与える。本作に於ける武士道の導入は、『ラストサムライ』などより必然的なくらいだ。あれは話の構図自体は、侍を出さずとも成立するだろうから。

最初にハンニバルに殺された肉屋は、東洋の女性への性的・人種的差別のみならず、ナチスの支配下にあった頃には、ロマ人やユダヤ人の迫害に手を貸していた男。戦争という、ハンニバル少年期の時代背景は、人肉食のみならず、人種差別という形でも、人が人として扱われない状況であり、人間の内なる怪物生が露わにされた時代だった。肉屋は、殺される直前、ちょうど魚を釣って捌いたところで、自分が魚にしたように、ハンニバルの刃によって切り裂かれる。

ハンニバルが持ち帰った魚を調理するコックは、「頬肉がいちばん旨い。片方を客人に、もう片方を女主人がとる習慣もあった」と語る。次の犠牲者はやはり頬肉をハンニバルによって削がれ、調理されてしまうのだが、「片方を女主人に」という想いはハンニバルの中にあったのではないか。つまり、刃を介しての、夫人への共感。

その紫夫人への愛の告白を拒絶されたハンニバルは、爆発の炎の中に消えていくようにして夫人の前から姿を消すのだが、恐らく観客の殆どは、後にハンニバルが食人鬼として大活躍する存在であることを知っての上での鑑賞である筈で、ここでハンニバルが死んだと思う人はあまりいないだろう。だから、ラストシーンでハンニバルが、復讐相手の前に再び姿を現したところで、そこには何の驚きも無い。そのままエンドロールに突入した瞬間、何やら途中で唐突に終了されたかのような感覚に陥らされる。爆発シーンを挿入したのは、戦時中シークェンスに於ける爆撃シーンとの、これまた一対一対応を図ったのかも知れないが。

とはいえ、このラストシーンでハンニバルが訪れた店の中に、狼だか犬だかの剥製が置かれていた点には注目したい。冒頭の、妹ミーシャと二人きりで小屋に身を潜めているシーンでは、小屋の前に屯する狼を少年ハンニバルが追い払っていた。ミーシャを食った兵士たちの顔がハンニバルの脳裏にフラッシュバックするシーンでは、獰猛に歯を剥く兵士らの顔に、狼の声が重ねられている。青年となったハンニバルが、共産党に奪われた自邸から逃れて国境を越えるシーンでは、犬に追われている。だが、紫夫人の館の窓をハンニバルが覗くシーンでは、番犬に吠えられながらも、その犬に懐かれもする。そして最後にハンニバルは、自らも妹の肉を喰っていたことを知り、紫夫人への愛も拒まれ、完全なるモンスターと化した証しのように、復讐の対象の両頬に、直接、犬や狼のように喰らいつくのだ。思えば、ハンニバルの母がネックレスを隠していた場所も、熊の剥製の口の中だった。

肉屋の殺害に始まるハンニバルの殺戮劇は、その後に殺されていく対象もまた、レストラン(=食事を提供する場)の経営者であったり、そこに置かれた籠の中の鳥と対応するように、檻の中に女を閉じ込めて売り物にする男であったりし、そして最後は、先述したように、剥製が置かれている店の主。一対一対応の因果性は徹底している。籠の中の小鳥たちを見ながらハンニバルは言う、「人間と同じだ。仲間が殺されても歌い続ける」。また囚われの身の女は、自分を束縛する男の前に拳銃を持って現れたハンニバルに言う、「そいつを殺して」。この、善ではないにしても、純然たる悪の立場でもない、倫理的に宙吊りにされたハンニバルというのも新鮮だ。

鎧兜の頬当てを着けるハンニバルは、『羊たちの沈黙』のマスク姿を想起させる。口をマスクで覆われているのは、口が彼の危険性の最たる部分だからだ。ここでも武士道と食人鬼性とが画として結合している。

頬肉を削がれた、切断された頭部が、なかなか絵になる不気味さを湛えている点もよし。

因みに、『ハンニバル』の原作小説には、レクターが画家バルテュスと親戚だなどと書かれていたが、バルテュスの妻は日本人の節子・クロソフスカ・ド・ローラ夫人(知らない間に本を沢山出されていて驚いた)。恐らくそれが紫夫人のアイデアの元になったのではないか。加えて、バルテュスの兄である作家ピエール・クロソフスキーは、マルキ・ド・サドの研究でも知られる。

(評価:★3)

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