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[コメント] 猟銃(1961/日)

何ヶ国語かに翻訳されてもいる原作は、複数の書き手による一人称の語りの形式により、複数の主観を交錯させる、繊細緻密な作品。言語で構築される文学ならではの世界観の映像化はもとより困難だが、こんな俗悪な昼メロにしていいわけがない。(原作に言及→)
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







佐分利信の加齢臭と、芥川也寸志の安っぽい音楽は特に酷い。

映画の冒頭、三杉(佐分利信)が狩猟犬を連れて雪原を行くシーンにボイスオーバーで朗読される詩は、原作では、或る詩人が友人の狩猟雑誌に寄稿した作品。詩人がモデルにしたのは自分ではないかと考えた三杉が、薔子、みどり、彩子が書いた三杉宛ての手紙を詩人に送ってきたことで物語が始まるわけだが、つまりは全く無関係な第三者に全てが収束する構図になっている。上述の詩にしても、雑誌の中では異質な、浮いた存在となっていたと詩人自身が語っており、つまりは場違いな詩を書いた男の許に、三人の女たちから結局は拒否される存在となった三杉が、ちらと彼を見かけた程度の男に自分のことを知ってもらおうと手紙を送る行為に全てが収束するのであり、作中の複数の語り手たるあらゆる一人称は、他人との関係を求めながらも隔絶しているわけだ。

三杉は詩人宛ての手紙で、三人の女の手紙も読んだ後は自分の代わりに廃棄してほしいと依頼している。薔子が盗み読んだ母の日記にしても、母から焼却してくれと頼まれたのを読んだのであり、いずれはこの世から消え去るべき文字が、記憶の名残りとしていっとき他者の目に触れるという、儚い小説なのだ。三杉の名もまた、詩人への手紙に差出人として書かれてはあったが紳士録にその名は見えなかったこと、女たちの手紙の中で三杉の名を記していたと思しき箇所が抹消されていることなどから、詩人は、三杉というのは偽名だろうと推測している。要は三人の女たちの情念の中心軸に位置している筈の三杉という男の存在そのものが抽象化されているのだ。それを映画がそのまま再現するなどということは極端に困難な話であり、そこをクリアしていないといって批難する気はない。だが、映画として最低レベルまで堕ちた観のあるこの俗悪な解釈は、原作に対する冒涜でしかない。

原作では、その身体性が意図的に希薄化されている観のある三杉だが、映画は文字という抽象的な媒体ではなく生身の役者を写さねばならないのだから、原作に沿うにせよ、映画独自の方向をとるにせよ、それなりに慎重な演出が必要なところだろう。だが、演じた佐分利信は、中年男の生々しさばかりを発散し、三杉という人物の奥行きがまるで欠けている。その彼が、原作通りの歯の浮くような台詞を吐くのだから噴飯もの。彩子(山本富士子)が彼の手に激しく口づけするシーンなど、そこらの中年同士の露わな欲情を見せられたようで、吐き気がする。

薔子役の鰐淵晴子の可憐さには、若い頃はこうだったのかと驚かされるが、その役柄自体は原作の清楚さとはかなり印象が異なり、「母さん」ではなく「ママ」と呼んで明るさを振りまく天真爛漫な性格に。彼女が、門田(佐田啓二)が過去に関係を持った女(乙羽信子)の生んだ子という設定は映画独自だが、メロドラマ的な哀愁をてきとうに振りまく程度のことでしかなく、やり方が俗っぽい。薔子が母・彩子に、三杉との関係を日記で知ったと告げる場面も原作には無い。それぞれが自らのうちに真実を秘めてあることの哀しみを描いた原作と比べて、慎みも繊細さも無く、全てをインスタントに処理し、単に画的にドラマチックに見えればそれでいいという姿勢が見えて、おぞましい。

みどり(岡田茉莉子)は最初から彩子に対して挑みかかるような態度なので、二人が表面上は仲のよい友達であるが故の裏側の陰惨さが際立たない。薔子にとっての優しいおばという印象も欠如し、常に険のある、気位の高い女という人物造形なので、彼女に純粋に懐いている薔子が真相を知った際の衝撃や、母、おじ、おばとの幸福な思い出を犠牲にすることで、大人の愛というものの真実の一端を知った成長劇という面も成立しない。原作の三人の女の手紙はそれぞれに自己完結しているので、作品全体で、恰も短篇小説を三つか四つ併せたような重層性と深みを有しているのだが、映画では全く平坦にメロドラマが展開するだけのものに堕している。

彩子が、実は自分は門田のことを想い続けていたのだと告白する場面は、原作では、門田は殆ど読者の意識に引っかからない、完全に脇に追いやられた存在に見えていたが故に、彩子の告白が衝撃的だったのだが、映画では門田は頻繁に画面に登場するので、何の意外性も無い。その上、ただの欲惚けオヤジにしか見えない三杉=佐分利信は一挙手一投足が気持ち悪く、爽やかな佐田と比べて、最初から敗北が約束されている観がある。原作では、その孤独な姿が詩人にインスピレーションを与えた存在、殆どが女たちの手紙によって間接的にしか語られない男として、幾らか抽象的かつ理想化された存在であっただけに、その彼が最後の最後に、まるで読者の注意を引いていなかった門田に破れる意外性が、彼の孤独感を更に強めていたのだが、そうした緻密な計算はこの映画には皆無。

原作を再現しろとは言わないが、原作に匹敵する映画ならではの世界観を構築しないなら、映画化などというのはただの愚行でしかない。加えて、原作での映像的な場面、映像化すべき場面が映像化されていないのが意味不明。彩子と三杉が旅館の窓から見る、「誰も知らないうちにめらめらと燃えてしまった海上の船」という、儚くも激しい美しさは、ただの夕日にされてしまっている。みどりが「私に褒められたい一心に」懸命になる姿を褒める若い男は、原作では競馬の騎手なのに、本作では、まったく映像的でない「株屋」になっている。一体何がしたいのか。ただの予算削減か。競馬場に行って撮るくらいの労はあって然るべきだと思うのだが。株も競馬と同様の賭け事だなどという幼稚なことが言いたかったのか。三杉が彩子に、人の内心に巣くう「蛇」の話をする場面は、原作では実際に蛇の標本を前にしてのものなのだが、映画では単に台詞として口にされるだけ。小説が映像的だったのに対し、映画には言葉しかないというのは話が転倒している。

(評価:★1)

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