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[コメント] 裸足になって(2022/仏=アルジェリア)

トゥシューズの足のショット。足(脚)から始まる映画の系譜。アパートの屋上。早朝か?バレエの練習をするフーリア−リナ・クードリ。後景には海が見える。画面に朝日のフレアが入る。
ゑぎ

 この後、屋内のダンススタジオで友人たちと練習をするフーリアや、親友のソニアとホテルの清掃、ベッドメイクの仕事をする場面、あるいは、お母さんに車をプレゼントするために闘羊のギャンブルをする(角のある羊の闘いに賭ける)様子などが描かれるが、序盤はずっとハンディカメラだ。これが、初めて固定ショットになるのは、真っ白の画面から、ベッドで眠る、顔の傷が痛々しいフーリアの真俯瞰にフェードインするショットから。そして中盤以降は、固定ショットが増える。最近、こういう手法が多い。

 原題は「フーリア」。主人公の名前。ほゞ主演のリナ・クードリが出ずっぱりの女優映画だ。彼女が存在しない場所が映るのはワンシーンだけ、バレエの本番(オーディション?)の会場に、彼女が来ない場面だけだと思う。クードリ−フーリアが会場に来ることができなかったのは、闘羊のギャンブルで儲けたフーリアを逆恨みした男に襲われたからだ(上の段落で書いたベッドで寝ているショットは、襲われた直後のフーリア)。この事件によって、彼女は左足首を骨折し、加えて声を出すことができなくなってしまう(心因性の失語症か?)。しかし、メインのプロットは、こゝからだ。

 バレエダンサーへの夢は潰え、もう自分は死んだも同然と考えるフーリア。だが、お母さんや親友ソニアの懸命な支えがあり、さらに、リハビリ中に聾者と唖者で構成された女性グループと仲良くなって、彼女たちにダンスを教えることが生きる希望となる。この展開で、険しい道のりであったとしても、ラストダンスへ向かって頑張り、成功を遂げる明るいストーリーが描かれるのかと想像したが、そうは簡単にいかないのが、この映画の強いところであり、逆に云うとカタルシスに欠ける部分かもしれない。

 フーリアがダンスを教えるメンバの中では、テロに巻き込まれて子供を失った女性ハリマ−ナディア・カシが目立つ。彼女も心因性の失語症か(聾者ではないように見える)。彼女が一人唐突な(衝動的な)行動を取ることで、プロットを転がすシーンが反復される。他にも、テロリストに監禁されていたという姉妹もいるし、そもそも、フーリアを襲った男も元テロリストで、恩赦によって社会復帰したのだと分かり、テロの傷跡、いや、いまだ続いている恐怖が描かれるのだ。あるいは、親友のソニアが、この国(アルジェリア)では希望を持てないので、スペインへ密入国しようとする顛末も描かれて、社会不安の感覚は、本作全体に途切れなく流れている。

 終盤では、フーリアを襲った元テロリストの男は、しかるべき司法の裁きを受けるのか、という点もプロットの焦点として描かれる。私は、フーリアが声を出すことができるようになるか、ということを気にしながら見た。いずれの収束も書かないでおくけれど、ラスト、フーリアとメンバーたちで行われるダンスシーンの力強い描写については強調しておきたい。フーリアの厳しい顔、その視線が心に残る。

#備忘。羊の名前。プーチン、オバマ、トランプ、ビンラディン、ジョーカー等。

(評価:★3)

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