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[コメント] 脱出(1972/米)

自然を犯すこと。自然に犯されること。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







文明世界からきた者たちは川を下る(あるいは上る)ことによって道中の艱難を克服することで自然を征服するという暗喩的な宿命を背負われる。文明vs自然のテーマに取り憑かれているベルナー・ヘルツォークの『アギーレ・神の怒り』や『フィッツカラルド』を待つまでもなく、この映画でもけれんみのない骨太の演出でジョン・ブアマンがその普遍的なテーマを力強く彫琢している。冒頭部でのダム開発を「文明による自然への強姦」と喩えるルイスの言葉は物語の重要な伏線になっている。川下りの途中で山の原住民という得体の知れない胡乱でいかがわしい猟師スタイルの二人が、エドとボビーを有無をいわせぬ暴圧的態度で萎縮させた挙句、ボビーに豚の真似をさせて強姦するのは自然側からの復讐であると同時に、人間の自然破壊の非道さを映し出す鏡にもなっているようだ。

ところで「やつは森を熟知している」と評され、都会人たちに「厭味なやつ」と腐されるルイスは野性的なフェロモンを振りまくバート・レイノルズが演じている。実際、物語当初は「森の人」振りを遺憾なく発揮してくれるのだが、それが後に虚像に過ぎないことが情けないほど明らかになる。「森の人」といえば『デルス・ウザーラ』をのような動物的なフェロモンより植物的な風貌と叡知を感じさせる人を即座に思い浮かべてしまうし、現実ではそうだろう。文明批判をして決り文句のような自然讃美をするルイスは激流に飲まれて死んだドリューが自然の具現化である原住民によって射殺されたと喚くことによって自然に対する無理解を暴露し、重傷の醜態を晒して意識不明になって都会人の世話になることによって、ある意味都会(資本主義社会)からの落ちこぼれ的弱者であることを仄めかされるし、上辺だけの軽薄な“野生”を纏うつまらない男であることを思い知らせる。

映画としては前半部のぐいぐい引き込まれるような力強さが後半になると弱まり、冗漫とはいわないがもっと軽快に編集すればと思わせるところも多々ある。自然の反撃に追い詰められたエドが崖を上って原住民の片割れを始末したと思っていたら実は単なるハンターにすぎなかったと臭わせ、サスペンスの色合いが濃くなり始めてもそこに焦点は合わず、口裏を合わせた虚偽の供述が崩されるわけでもないしそのような予感も感じられない。ただそういった重さと冗漫さの入り混じった結末部は急ぎ足で流れているからこそ、単なる休日のアウトドアライフが取り返しのつかない惨事になってしまってことに対する引きずられた恐怖と内向する後悔の後味の悪い不安感の漂う余韻を残すことは確かだ。

しかしこの映画を観て『エクスカリバー』といい『エメラルド・フォレスト』といいこの監督がエメラルド(緑)色を多用しこだわる理由が分かったような気がする。『殺人に関する短いフィルム』での偏光フィルター越しの緑色ががった画像についてクシシュトフ・キェシロフスキは緑色の持つ冷たさや非情さを説いていたし、『コックと泥棒、その妻と愛人』の赤裸々な緑色についてピーター・グリーナウェイは緑=ジャングル的な暴力性と説いていた。しかしジョン・ブアマンにとって緑色は肯定すべき不可侵の自然を象徴するものであり、エクスカリバーがエメラルド色を帯びるのも幻の部族がエメラルド色を体に塗るのも監督によって肯定されたことの証左なのだろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] ジョー・チップ

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