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[コメント] バタフライ・キス(1995/英)

こけおどしな理由(わけ)。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







上映中感じていた“ムカムカ”は決して癒されることがなかった。ラストの帳尻併せのようなシーンは美しい海水のたゆたう渚のシーン。マイケル・ウィンターボトム監督はこういっているようだ。「さあ、この美しいラストシーンで全てを水に流してすっきりしてください」と。しかし、そう簡単なものではないと思いませんか、みなさん? この映画は全編を通じて“愛のテーマ”が流れている。アマンダ・プラマー演じる女性(以下A)がガソリンスタンド付属のコンビニに入っていって、こう訊ねる。「愛の曲なんだけど、知らないかなぁ?」そして、Aがいうところの“愛のテーマ”を歌いだす。ところが誰も知らない。実はオチがあって後で原因が分かるけど、Aがいくら“愛のテーマ(愛の曲)”を訊ねても誰も知らないというのは意味深だ。つまり、Aにとっての“愛”と一般的に考えられている「愛」とは全く異種のものであることが暗示されているから。ただ、Aの“愛”が一般的な「愛」ではないからそれが否定されるべきものではないんじゃないか? とリベラルを自認する寛容な方々は思うかもしれない。ところがAにとっての“愛”とはどのようなものであるかは、僕にはさっぱり分からないのだ。サスキア・リーブス演じる女性(以下S)はその“愛のテーマ”を知っている。この二人の間には同質な“愛”で結ばれる可能性があるらしい。ところで結ばれたのか? いや、二人の間に“愛”が成就する時は、全てが終わった時なのだ。SがAを殺した時。

しかしドライブの途中、親子を拾って車内でいろいろと会話する場面があって、イルカに関する話題になったとき、Aは激しい侮蔑調でこういう。「殺すほうが殺されるほうより上位の種だ」と。この言葉もまたラストに通じている。この言葉に込められた怒りににも似た侮蔑的感情は、上位の種と下位の種の間には“愛”が成立しないことを、なにより雄弁に語っていると思う。このAの価値観では例えば、犬や猫などの愛玩動物や飼主たる人間の間にすら“愛”が成り立たないことになる。どっちかというと人間のほうががペットを容易に殺し得るから。その価値観のためラストでSが彼女を「殺すこと=“愛”」であると解釈するのが難しくなってしまう。少なくともSに「自分を殺すように」頼んだときに、AはSより下位の種であることを受け入れたわけで、上位と下位の間には“愛”が成り立たないというAの価値観は「殺すこと=“愛”」という結論を否定する。仮にウィンターボトム巧みな脚本で、「殺すこと=“愛”」という終結に収束するストーリーを纏め上げ、なかなかの出来栄えの映画を作り上げることができたと自己満足していても、作中のAのセリフ自体が監督の意図を否定することになってしまい、登場人物が作者(監督、脚本家など)に反逆して、結論を否定するという大変珍妙な事態になってしまう。下位の種からは上位の種に対して、“愛”を抱けるのではないか? という考えもある。それは一理あって反論すべき理由はない。ただし、たとえそうであってもAはSを上位に置くことによって、Sからの“愛”が成り立たないと従来の価値観に依拠して考えるはずだから、その当然の帰結としてAの価値観の中ではその想いは片想いになるはずだ。更にSのほうではAの価値観に共感、あるいは理解してなくて、ただひたすら一途にSなりに愛していたとしても、それはAの考える“愛”ではないはずだ。すると、お互いに愛していても、その“愛”は双方にとって異質なため互いに一方通行になってしまい、相思相愛でありながら、合流して一つに溶け合うということがないという片想いのすれ違いになってしまい奇妙なことになる。こうなると「誰も知らなかったAの“愛の曲”をSだけが知っていたということ=両者の“愛”は同質である」という伏線と結末が自己撞着してしまい、策士ウィンターボトムはまさに“策に溺れ”てしまったように思われても仕方がないと思う。

とつらつら考えていたが、この解釈も一般的な側にいる僕なりの「愛」についての価値観に照らしあわして導き出されていることに気づく。つまり、僕の抱いている「愛」とAの“愛”もまた異質であり、同列に論じることはできない。それで、できるだけAの“愛”の側から解釈するとしても、ここで行き詰まってしまう。僕が普通に考える「愛」は少なくとも愛する相手を殺すより守ることにあり、侮蔑するより敬愛することにある。Aの“愛”が愛する相手を殺したり侮蔑したりすることにあるなら、それを“愛”と認めることはできても「愛」として受け入れ、共感することは不可能。つまるところ、どんなに作者が「Aにとっては殺すことも“愛”なんだ」という結論で帳尻あわせのラストを美化しても、僕としては「でもただの人殺しじゃん」とも思ってしまう。この監督の結論に対する不快感と違和感は殺すことがラストのように相手を救うためにする場合と単に意味もなく衝動的であったり、あるいは侮蔑や憎悪や嫌悪から殺してしまう場合などとの間の質の差異がないから。Aなりの「“愛”=殺すこと」の価値観とSがAを「殺すこと=“愛”」は同質であるという意図を維持していくとどうしても様々な殺しの間の質の差異はなくなってしまうから。ぶっちゃけていうと、「救うために殺しても、楽しみで殺しても、発作的に殺しても、なんだって“愛”なんだよ」という無責任な結論になってしまう。

この映画には論理的に解しようとすればするほど、矛盾したり、破綻したりするところが多い。ストーリ自体がスキャンダラスで僕みたいな平凡な人間には“ムカムカ”する場面が多いのだが、その“ムカムカ”の原因はスキャンダラスな場面だけではなく、ストーリーの論理的破綻にもあるのではないか? と思ってしまう。他にもAは宗教的な雰囲気があって、しかも自分の体を常時痛めつけているほど狂信的だ。体を痛めつけるのは、原罪や欲望に対する罰を自分に与えることによって償っていると思われるし、実際それは熱心な信者や修道士などに見られ、ロシア正教の異端の中には、そういった自虐による贖罪という思想が去勢にまで徹底された去勢派なんて分派もある。しかしどうもAは原罪や欲望に対する宗教的罪悪感から自虐的に自分を痛めつけているわけではないことが分かる。なぜならAは平気で人を殺すし、男を誘惑するし、欲望を否定しないから。だが、Aはなんらかの罪悪感を感じているのは確かなのだ。しかも原罪というより、「自分は悪いとは全然思っていないが、世間一般では悪いとされていることを知っている殺人を犯すことを自分の力では止められない」自身の存在に対して。それはAが人を殺す理由が自分が警察に捕まってこれ以上殺人を犯さないような状況に陥ることを望んでいることからも分かる。宗教的な自虐と現世(精神病理的でもあるが)的な自虐の齟齬。聖と俗の混交。

ところでS。僕は最初このSは「善」の象徴なのかと思っていた。「悪」の象徴であるAとの旅行を通じてAを感化していくのだと。しかし全く「善」でもなんでもなかった。Sはイノセントでナイーブで疑うことを知らない雰囲気があり、恐らく誰(特に男)にも愛されることなく大人になり、愛されることを知らなかったから、Sに愛撫されて勘違いしてAを愛するようになった感がある。そういった表層的な「善」の雰囲気にも拘らず、SはAの殺人をAの意思に反してまでも自ら進んで隠蔽する。後に自分でもその隠蔽がAの連続殺人を悪化させたと認めていながら、悪びれたところもたいしてない。それどころかS自身がただ単に嫉妬から兇悪な殺人を犯してしまう。全く持って「善」ではないどころか「悪」に近い。全くの「悪」ではないが、「悪」を更に悪化させる推進力になっている。

この映画は意味ありげで実はなんの意味もないのではと思ってしまう。実際、“ムカムカ”はしても飽きることはないから、ただ何も考えずに“ムカムカ”しながら観つづければいいのかもしれない。だけど、僕はこの二人の“愛”を「愛」とは認めない。

(評価:★3)

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