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[コメント] ガタカ(1997/米)

存在の限界を超えて行くことに存在の夢を見る思考は、実際の所、遺伝子操作でも擬態でも同じテクノロジーに根差している。しかし、それゆえに、この映画は正当な意味で人間賛歌だと言いたい。 2013年3月22日DVD再見(初見は多分5,6年くらい前?)
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







主人公ヴィンセントは、「神の子」=妊娠によって生まれてきた偶発的な人間で、それゆえに遺伝子に既に「(可能性的)限界」が刻み込まれている。彼の夢は宇宙飛行士になることだが、以上のような遺伝子を持つがゆえに、その夢は閉ざされている。そればかりか、社会全体が遺伝子操作された人間ばかりであるがゆえに、社会そのものに居場所を求めることさえできない。

人間が自然(=人間そのもの!)を完璧にコントロール可能になっている世界とは、我々がしばしば抱くSF的な夢のような便利世界ではなく、便利であるが故にその残酷さが際立つ――そんなディストピアがこの映画の基本的な背景設定だ。

そして、主人公ヴィンセントは、そのディストピアで夢=可能性を現実化するために、他人に成りすます。

この映画は、そういった意味で「可能性」についての物語だ。表面的に理解すれば「夢を信じ続ける」「努力し続ける」そういった古典的な道徳についての物語だとみることが出来る。

だけど、ちょっと冷静になると、その奇妙に倒錯している道徳に気づく。

この映画が描き出したヴィンセントの可能性は、一体どうやって実現されたのだろうか。他人の皮膚や血液、尿を借りてきて(買い取って)他人になりきる――つまり究極的に自然的な要素であるところの「私」と「他人」という境界線さえも超えてしまおう、というのである。さらに言えば、「私」と「他人」という境界を別の「他人」が判定しようとするということさえも、コントロールしようとしてしまおう、というのである。これらは、「私」が手を加えることのできないという意味で、「出産」以上に根源的な意味で「自然」だと言って良いだろう。

ということは、この映画は、「自然」をコントロールするという人間の技術が招いた幸福なディストピアに対して、より根源的な意味で(それ以上の意味で)「自然」をコントロールすることによってディストピアに可能性を見出そうとする、という奇妙な構造になっている。つまり、実際の所、両者を貫いている技術は、「自然」をコントロールする、という発想(欲望)に根差している。

I never saved anything for the swim back.

我々は岸(過去)に戻れない。だから、泳ぎ続けて、歴史を積み重ねて、技術を前進させる。仮に技術が間違っているならば、もはや我々には技術の問題を技術的に解決する術を見つけるしかない。しかも、前に進む中で、だ。

だから、我々が感動したヴィンセントの、あの振る舞いの技術は、実際にはこの映画の背景に染みこんでいる未来社会の暗黒面と連続的なのである。結局の所、それが実際上の数字としてどれだけかはともかくとして(1パーセントだろうと99パーセントだろうと)、その可能性を具体化しようとする時、我々は「自然」に手を加えなければならない。

そしてまた、それは次のことも意味している。一つの可能性を現実化するということは、別の可能性を非現実化する(場合によっては永久に!)、ということでもあるのだ。例えば、宇宙飛行士になるために、別の一人の男が灰になる物語がある。この物語は、「残酷」な物語だ。一人の男が夢を現実化するために、一人の男が夢を“現実化できないこと”が必要だったのだ。

しかし、この映画の決着は、その残酷な構図について、見ている側に別の意味を提示している。それが、あの感動的なラストの意味だろう。

この映画は「自然」をコントロールするディストピアのテクノロジーに対して、より根源的な「自然」をコントロールしようとする人間の美しさを対置させて描き出している。しかし、この二つの物語に通底するテクノロジーは同じものだ。「自然」をコントロールすることで、可能性をコントロールする。これらは同じものだ。

しかし、それでもなお、あのラストには人間賛歌としての語りの可能性が詰まっている。一体、それはなぜなのか。我々が感動する人間賛歌は、我々が恐ろしく思う排除のディストピアと繋がっているのに、である。

もしかすると、ヴィンセントが本当に戦っていたのは、我々の中にある「可能性」への信仰そのものだったのではないか。可能性を測る、統制する、あるいは可能性に賭ける――そういった「可能性」という思考そのもの。 だから、この映画が人間賛歌たりうる理由は、「可能性」についての思考を後景に退ける所にある。そして、それゆえに、この映画は「可能性」についての物語が前景化している。だが、だからと言って、この映画は単純に「努力」の物語ではない。

<加筆>

もしこれが単なる「努力」の物語ならば、ラストの検尿のシーンがあれほど効果的に作用する理由がないだろう。なぜなら、あの効果的な演出は、ヴィンセントの努力の結果ではない。他人が自分の努力を認めるかどうかにまで、ヴィンセントは努力していないし、できないはずだからだ。つまり、ここであの医師=他人は、ヴィンセントの努力や可能性の外側に存在している。

だから、このラストのシーケンスで物語は急激に展開している。「自然」を統制しようとする所作そのものに、さらに根源的な(我々が容易には垢のように流し落とせないほどに根源的な!)〈自然〉が現れている。自分が存在していること。あるいは、誰かと共に存在していること。我々は、可能性に単純に関わって生きている以前に、ただ生きているということ。これらは「努力」や「可能性」という人為的な概念を超えてあるものであり、その人為を超えたものの美しさ(しかし、時にそれは残酷でもあるが)がある。この映画は存在することの美しさの物語だ。だから、人間賛歌なのである。

</加筆>

存在が存在しているという事実そのものの奇妙な(それ故に残酷な)美しさ。ただ生きようとして生きる、という存在の美しさ。それが、多分『ガタカ』の美しさだろう。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)山ちゃん Orpheus 代参の男

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