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[コメント] ギミー・ヘブン(2004/日)

このテーマそろそろ映画でやるかなーと思ってたら、やってくれました。
スパルタのキツネ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この原作は読んだことはありませんが、本作、ずばり、三島由紀夫のパクリです。

というのは、“音楽”だけが聞こえないと訴える患者と精神病医を登場人物とした三島由紀夫の「音楽」という作品をちょうどつい最近読んでいて、このテーマ、うまくアレンジすると面白い映画になるんじゃないかな? と、思っていたところでの鑑賞だったのです。

そこで、、、やってくれました。 精神病理学的要素、妹のトラウマが兄の悪しき行為に端を発し、兄妹と第3者が対峙するラスト、そして何よりも“音楽”に始まり“音楽”に結びつける顛末。明らかに本作は「音楽」の派生作品です。

「そうは言っても、本作の“共感覚”については「音楽」では言及されていないし、そもそも主題が違うのではないだろうか?」と、指摘する方もいるかもしれない。

この問いかけにも「音楽」をもう一度読み直せばある程度は答えてくれるだろう。ただ、ご指摘どおり、本作が“感覚”と“感覚”の瞬発的結びつきであったのに対し、「音楽」は“感情”と“感覚”の心理的結びつきであったため、これだけで三島のパクリといってしまうのは言い過ぎかもしれない。主題については、本作の主題を教えていただきたいぐらいだ。 

そこで、三島作品をもう一つ登場させれば満足していただけるだろう。そう、本作は名作「鏡子の家」をも大胆に?アレンジしたように思われるのです。

「鏡子の家」は、決して他人の干渉を許さないストイックな美学の持ち主の4人の青年を主人公とした作品。その中の一人、日本画家の夏雄がまさに本作の“共感覚”に近い感覚をもつ。夏雄は同じ景色が人と違って見える。その感覚は彼の画材に活かされ、展覧会の彼の画を通じて同じような超感覚を持つ人物と接するに至るが、それを機にその深みは彼を覆うほどとなり苦悩するに至る・・・。 ちなみに本作でヒロインの目は「ビー球のようだ」との表現があったが、これなんかも「鏡子の家」で4人の若者の姿を投影した鏡子に掛けているようである。

三島の文章による夏雄の知覚表現は、それを読んでいる自分もそのように感じられるほどに陶酔させられる文体で、それはもう芸術である。当然ながら、三島作品の中では“共感覚”などという安っぽい表現は使われず、全て豊かな文章で表現されているのに対し、本作が映像として“それ”を描こうとせず“共感覚”という一症例のことばだけでほとんど片付けているのとは雲泥の差がある。ラストで漸く映像で表現していたが、その見せ場も随分と唐突で変だった。

さて、ここまで類似点を挙げると、本作で残るのはインターネット、覗き家、殺人事件といった諸々の3流素材ばかり。これらが結果として、いかに安っぽく物語を演出し、更に三島の2作品をなぞった結果、いかに主題を不明確にしたかは言うまでもありません。

ラストで心中した(ように見えた)2人から察すると、本作の主題は共感覚でも音楽でもなく、ラストの妙にあまい演出からしても“救済”に在るようにも思えるが、それであれば「音楽」の医師と患者の関係にも、「鏡子の家」の鏡子と夏雄の関係にも通じることになるけど、本作の場合、ラストはヒロインの一方的視点に拠り過ぎていたように思う。最後の最後で主観を別の人間に(江口からヒロインに)変える、サスペンス映画でありがちなパターンとなってた訳だが、このような演出は共感覚を題材とした本作には違和感がある。

ラストを本作に好意的に解釈すると、おそらく2人にとっての“救済”は、花の舞い降るシーンに見られたような現実との和解によって得られたものではなく、そこでの何かに対し2人独特の感性(共感覚)により、死に“共感”したことによって得られたものではないだろうか? つまり、安藤(=死)を負ぶさり野道を下り行く江口の姿は、ヒロインと2人で死に行く姿だったのだ。こう解釈することで、なぜ江口まで死ななくてはならなかったか、理解することが出来るだろう。

随分と判りにくい映画だなぁというのが率直な感想ですが、非常にわずかながら三島の要素をタイムリーに感じられただけでもまぁ良しとします。

(評価:★3)

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