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[コメント] 太陽の季節(1956/日)

ボクシングの殴り合いに力の漲りはあるが凄惨さも感じるように、太陽、太陽族、と言った際の明るいイメージとは異なり、影の差す暗さが印象的な作品。
G31

 石原慎太郎の『太陽の季節』と言えば、陰茎で障子を突き破るシーンが有名、とずっと思っていた。もちろん今の映像倫理でもそんなシーンを直に描けるわけないが、そこはサッと場面転換するなどの巧みな映像処理で、そういうシーンに見せるのだと。そんな映像を目にした記憶もあったのだが。実際に映画を見てみると、そういうシーンではなかった。シャワーを浴びた後のタツヤ(長門裕之)は、自分の家の中なもので、構うことなしに、裸のまま腰にタオルだけ巻いて、部屋で待たせていたエイ子(南田洋子)の前に現れる。無礼さに腹を立てたエイ子が、読んでいた雑誌をタツヤの方に投げるのだが、逸れて、障子に当たってしまう。障子に空いた穴の向こうには、確かに、タツヤの巻いたタオルの腰のあたりが映ってはいたのだが。この映画で、障子に穴が開くシーンはここだけだった。

 以前、『また逢う日まで』という昭和25年の作品を観たときにも、思い込みと違っていて驚かされたことがあった。この作品は岡田英次と久我美子の「ガラス越しのキスシーン」で有名なのだけれど、なぜか知らんが、当時の映像倫理では「キスシーン」を直接描くことはできず、苦肉の策として、ガラス1枚を二人の間に挟むことでシーンとして成立させた、そんな風に思い込んでいた(思い込まされていた?)。確かに最初のキスシーンはガラス越しなのだが、その後何度も普通に直に唇を重ねるシーンが出てきて、あれれ?と思わされる。まあ、当時でも恋する男女が唇を交わすというのは当たり前の行為だったのだ。

 このように、伝説的な映画を実際に見てみる、という良さは多分にある。

 だが今観ると、中絶ともなれば母体には一定の危険が伴うことは知っていただろうに、避妊もせずにすることだけはしてしまい、積極的に産めとも産むなとも言わずにいておいて、死んだエイ子を「馬鹿野郎」と責任転嫁的になじる主人公(タツヤ)が、馬鹿野郎はお前だろうとしか見えない。

 青春というものに、こういう自分勝手な感情が伴うことはよくわかる。また、青春の後ろ見ずな傲慢さを描いて見せたことが、この映画(小説も)の≪衝撃≫の正体だったのかなと、思わないでもない。そういった諸々の≪衝撃≫描写に後押しされて、われわれの青春時代もあったのかもしれない。だが、性の奔放さに対する仕打ちが、女性に対してのみ表れるこういう作品を見ていると、なんとも痛ましい思いが先立ってしまう。

 駅前に観音様がニョキッと顔を出していたから、ナンパした彼らが拠点としていたのは大船の町だと思った(鎌倉や逗子にも近い)。だが後に、産むか産まぬかの相談にエイ子がタツヤを呼び出したのは、明らかに東京駅・八重洲側の「大丸」(の中の喫茶店)だったので、なんで?と思った。

70/100(10/10/17記)

(評価:★3)

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