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[コメント] 太陽の季節(1956/日)

原作小説のように文字で読む分には構わないのだが、当時の若者の言動は今見るといちいち滑稽。心理表現で原作の深度に達していないのが致命的。長門裕之は顔が冗談じみているので、本作や『秋津温泉』のような映画で主役を張るべきではないだろう本来。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作付きの映画の場合、原作小説に描かれていた内面性が、具体的なショットという形で可視化されていなくとも、小説中の外的出来事を映像化した時点で一緒に映画の方に移行しているかのような錯覚に陥りやすいのかもしれない。原作では、英子(南田洋子)をいびる龍哉(長門裕之)の心情、その、青年らしい粋がりと、純粋な恋愛感情との相克や、英子の、「女」になろうとしてなりきれない心理が、書き手・石原慎太郎による一段高所からの心理分析という形で、批評的な描写が為されていた。だからこそ、最後に葬儀で参列者に向けて龍哉が放つ「あんたがたは、なんにも分かっちゃいないんだ!」という台詞が活きてくるのだ。だが映画の方では全篇に渡り、龍哉の言動は殆ど単なる気まぐれの遊びのように映じてしまう。それは長門の、奥行きを欠いた、冗談じみた顔のせいでもあるのだろうが、演出の責任も大きいだろう。

それに、英子が過去の恋人の事故死を語るシーンは、原作で描かれていたような、彼女の恋愛心理に対する決定的な意味合いを無視しているので、英子の人物像が陰影を欠いたものと化してしまった。バーで酔っ払いながら英子が、自分は恋愛の相手に「与える」ということが出来ないのだとこぼすシーンも、原作での「奪う」女としての英子の荒々しさと、その裏面にある寂しさを掬っていない。龍哉の障子破りにしても、そのように野蛮な形で欲望を露わにした男を結局は喰って奪ってしまう英子という女を描くための仕掛けであった筈なのだが、映画では障子破りという行為自体が何とも曖昧な表現にされてしまい、男根の存在が捨象されているという意味でも、表現の強度としても「去勢」されている。

個人的には、政治家・石原慎太郎には全く良い印象を抱いていないし、芥川賞の選考委員としても、川上未映子に対する評価などで老害ぶりを晒しているように思え、また原作にしても、よく言われるように文法的に所々いい加減なのが鬱陶しいのだが、それでも、この映画ほど軽薄で空疎なものを彼が書いていたわけではないことだけは認めないわけにはいかない。上述したような心理描写の欠如に関しては、英子が心を惹かれる、龍哉の家の電話に備えられたオルゴールという形で一応は補完しているが、まだ内面への食い込みの足りない記号的な表現にとどまっているように思う。

龍哉と英子がヨットの上で情を交わすシーンで、抱き合う二人を捉えたショットをマストで覆う演出や、浜辺で二人が口づけし合うカットに続けて、波飛沫のカットを挿入するなど、何ともベタで恥ずかしい。カフェで龍哉が英子に、別段、子供が欲しいわけではないと告げるシーンでの、英子のアップにガラスが割れる音を重ねるなど、変に間接的な表現を狙っているのが却って小ざかしい。これならむしろ、「ジャジャーン!」というような、心理的衝撃を表す効果音を挿入するといったような素直な演出にしてくれた方がまだ好感が持てる。料亭のシーンに響き渡る嬌声なども、機械のスイッチ一つで出てきたような不自然な声。こうしたちょっとした所でも、演出に最低限求められる繊細さが全く欠如しているのが分かる。

ヨットの上で、英子と龍哉が本当に愛し合えたと感じるシーンは、原作ではもっと詩的かつ印象的に描かれていたのだが、それが全く映像化しえていないせいで、後に続くシークェンスも全てが平板に見えてしまう。原作の、英子の死に先立って、再び二人がヨットに乗る場面の幻想的な雰囲気など、ぜひ映像化してほしいと思えた箇所が全然活かされていなかったりと、何のための映画化か不明。原作の方が映像的なくらいだ。

(評価:★2)

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