[コメント] インソムニア(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭の繊維に滲む血が象徴的なものとしてうつった。ほんの一点でしかなかったものが、相棒の死に際の言葉や犯人の言葉によって徐々に面積を広げていく。気付いた時には擦っても洗ってもその存在を消し去ることはできないまで至り、それどころか、あがけばあがくほど、そのシミの存在を否応なしに認識することとなる。この刑事の意識の底に潜む僅かな「悪意」、さらには「罪悪感」。
この地には、元の住人と「何かから逃げてきた」人々のみしか存在しないという。しかしその「何かから逃げてきた」人々にとって、光に身を晒される時間の極端に長いこの地は、果たして格好の逃げ場ととしてうつっただろうか。「逃げ場などない」、きっとこのことに気付き、人々は自らの身の程を受け入れる(正当だとみなす)ことによってのみ、かろうじて生き続けているのではなかろうか。
ホテルの女主人の言葉がそのようなことをほのめかしているように、ここに登場する犯人も、自らの考えや行動をことごとく正当化する。少女を死に至らしめた瞬間、迷わずこの道を選んだ犯人は、すでにこの地にて自らを受け入れる術を体得していたのではなかろうか。少女のけたたましい笑いに必要以上に過敏に反応し、そして「恐れ」が彼の暴力を殺人にまで至らせた。彼は一体何から逃げてきた人なのだろうか・・・・。
主人公にとって犯人との戦いは、己の行動を正当化しようとする自らとの戦いでもある。結局彼はこの地で生きることはできなかった。しかし、彼は己の汚れた姿を汚れたものとして、最後まで完全に否定することを選ばなかった。そのかわりに光の中で生をまっとうするもう一つの方法を、ひとりの女性警官に託すことができたことで、ようやく彼は安息の眠りにつくこととなる。
ある意味サイコ・サスペンスと言えなくもないとは思うけど、サイコ・サスペンスには、必ずしもサイコ・キラーが登場するとは限らないワケで。犯人をサイコ・キラーに仕立て上げようとするコチラの目が、ロビン・ウィリアムスの演技をもの足りないと決め付けようとしているような。確かに彼は道を踏み外した人間とも言えるが、少なくともこの地においては極端に例外的な性質を持った人間ではなかったはずだ。いたずらに瞳に狂気を宿らせなかったのは、個人的には正解だったのでは、と思う。その一方で、迷いのないからこその穏やかさ、そしてそれゆえの怖さというのは出ていたと思う。
ともあれ、深読みすればするほどいろいろな見方が生まれてくる、なかなか奥行きのある物語。個人的にはアイディアから出発して辻褄合わせに終始している感のある『メメント』よりも、物語のテーマと設定やアイディアとの間で、互いに親密な関係を築いてる本作の方を断然買いたい。とはいえ、音のアイディアは良いのだが、必然性を感じさせない細かい編集が時折散見されたような気もする。小手先のテクニックをひとまず置いて、必要以上に奇を衒わず、もう少しじっくり描いてくれれば、とは思う。
(2003/4/21)
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