[コメント] 恋ごころ(2001/伊=独=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
とにかくヒトコトでこの映画の楽しさを語るのは至難のワザなので、感じたことをつらつら書いていくこととします。
舞台〜楽屋〜ホテル。コレがルーティーンのように繰り返され、その後に続く展開もごく限られた場所で演じられる。なのにコレが何とも楽しい。魔法にかかったような気分になる。
判で押したような日々のスケッチのように思えて、例えば舞台でのシーンやアクシデント、楽屋に訪れる客人、ホテルでのひと悶着、こんな些細な違いからその後の展開は絶えず様相を変えていく。そしてそんな些細な違いが何故楽しいのかと言えば、因果律に支配されているような首尾一貫した展開ではなく、とても即興っぽくて、先に何が用意されているのか読めないのである(原題の「その時になってみないと分からない」は秀逸)。カミーユが何気に階段で躓きそうになるところとか、指輪を探し当てるために砂糖、塩、小麦粉、と、順に指を突っ込むところなど、必然性なんてお構いなしの展開に、いつしかココロが奪われてしまうから不思議。
あと階段の昇り降りや、扉の開け閉めが、不思議なリズムを生み出しているのも、大きな特徴だと思う。絶えず同じことが繰り返されながらも、コレまた様々なヴァリエーションが用意されていて、些細なアクションを見ているうちに、少しずつズレた空間に誘われる錯覚すら覚えたりする。
俳優がまたとても生き生きしている。話によるとリヴェットは役者と共に細かい演出を決めていく人らしく、そんなせいもあってか、半分は映画の中の人物で半分は生の人間っぽい印象を受けることがままあったりする。ともあれ、一流の役者がこぞって彼の映画に出たがるのも分かる気がする。一本の映画を撮る経緯で監督と役者は共犯関係みたいになっていくのだとしたら、役者としてみればこんな楽しい仕事もないのだろうなぁ。
何でも構想の出発点はルノワールの『黄金の馬車』らしい。ラストでそれぞれが舞台上の人物として取り込まれてしまうシーンを見つつ、主人公カミーラ(名前がまたイタリア版カミーユではないか!)の有名なセリフが頭を過ぎる。「どこまでが舞台で、どこまでが人生なの?」。『恋ごころ』のパリは、どこまでもパリっぽいのに、まるで限られた空間のなかに閉じ込めてしまったかのような閉塞感もある。リヴェットはおそらくこんな風に見ているのではないだろうか。「人生なんて所詮舞台という限られた箱の中の、出口のない迷宮。でも迷宮が織り成す様々なヴァリエーションを楽しめれば、人生捨てたもんではない」、と。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (11 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。