[コメント] A.I.(2001/米)
西洋合理主義は、アメリカもヨーロッパもそうなのだが、ヒューマニズム=つまり、人間をすべての生命の長とし、ピラミッドの頭にもってくる。だから、猿はそのつぎで、くじらはそのつぎで、となり、さいごは蠅とか虫になるのだ。ところが、五木寛之がある本の中で書いているように、日本人は彼の「人間も虫けらも同じ命なのだ」という意見に共感を覚える人が多いと思う。キリスト教と仏教の違いかもしれない。
日本にはそれにアトムがいる。手塚治虫が想像したアトムは、日本人をさらにロボットに対して愛情親近感を持つことに力を与えた。もちろん、僕自身も小学生の頃、アトムが地球を救うために惑星に体当たりして死んでゆくシーンに頭をがーんとやられたやからである。
ところが皆が知っているように西洋では、ロボットというと人間の仕事を奪ったり、あくまで人の下にいる機械であり、それは命をもっていないたんなる「もの」である。 その「もの」がもしも「知性」を持つとどう人間は反応するのか、というのがこのシネマのテーマである。あるいは、「人」と「もの」は簡単に二分されるのかというテーマである。あるいは、「もの」はどうやって「意識=命」をもつのかということである。
欧米人はしかも無神論者が多いので、人間でさえ「機械」と考えているものもたくさんいるのだ。だから、「もの」にたいしての、恐怖が異常に高い。それが「死霊のなんとか」とかいろいろな骸骨とか死体のシネマにむすびついていく。
日本人はまだまだ、直感的に、石も虫も人も、その「存在」そのものを信じているところがある。アニミズム的なところも多い。
だからこの映画には、非常に感動させられたのだ、僕は。
つまり、原作のキューブリックは無神論と言われてはいるがわからない、ましてやスピルバーグの宗教観もわからない。しかし、それはどうでもいいことなのだ。
ここに、ラストシーンで暗示されていること。 3つの映画のことを連想した。 「2001年宇宙の旅」 「惑星ソラリス」 「ブレードランナー」である。
ビックカメラでこれは安いなあ、と夏に見落としていてたこの映画を軽い気持ちで買って、プレステのターンテーブルにのせたのだが、最初から最後まで一気にくぎづけになった。頭をがーんとなぐられた。いいか、俺はもう若くはないぞ。ちょっとやそっとのことでは、がーん、とはなぐられないのだよ。ところがこの映画はがーん、だった。
息子が、みずぼうそうで熱をだしてうんうん寝ていた。その横顔が少し、このディビットに似ていた。そして、このタルコフスキーの「惑星ソラリス」に出てくるあの奥様の幻影=ビジョンに似ている女優の寝顔が、少し、俺のかみさんに似ているなあ、と。・・・・・そこまで、頭をやられたのだ。
愛とは、人を愛することはなんて凄い力を「人」に「もの」に「存在」に与えることだろう。これはもう、まちがいなく、「愛はものをそれ以上の存在に科学変化させる」ということを科学的に証明した愛の連立方程式みたいな映画であり、二人の天才映画監督が、意識するしないに関わらず、「宇宙の背後にある大きな力=存在」を心から必要としそれを見事に証明したのである。
やはり、2000年も自分の夢をピノキオのように祈りつづけると・・・・・
キューブリックの冥福をスピルバーグはこの映画で祈ったのだ。
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