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[コメント] 按摩と女(1938/日)

一つ一つのショットの構図が美しく、盲人が主役である事を忘れてしまいそうなくらい視覚的快さに満ちた映画。温泉気分の穏やかさの中に、適度にシニカルさとサスペンスが塗されている匙加減が巧い。のほほんとした雰囲気を保ちながらも、平板さを免れている。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







だが、最後の別れの場面で、やはりこれは盲人の物語であったのだと再確認させられる。高峰三枝子の乗る馬車が去るのを、彼女への未練を断ち切れぬ様子で追う徳市(徳大寺伸)。この場面は、高峰が、旅館から去る佐分利信爆弾小僧の乗る馬車を追う場面とは、明らかに違う。

高峰の時には、コトコトと路を行く馬車を捉えたショットが、走って追う高峰のショットと交互に挿入されていた。だが徳市の場合は、天を仰ぐようにして耳を澄ます彼の様子に続けての、馬車を背後から追う、持続的なショット。前者ではバラバラの視覚を重ねていたが、後者では、画面の持続性によって、聴覚という時間的な知覚に徳市が縋りつくような様が切実に感じられる。それはまた、見送る側の心情の的確な描写ともなっている。

高峰を窃盗犯だと思い込んだ徳市が、高峰を逃がそうとする場面では、盲人である彼が、「目明きの目は誤魔化せても、私の目は誤魔化せません」とか、「貴女の姿が、私の見えない目にしっかりと焼きつけられるのです」、「私の目の届かない所へ行って下さい」などと、「目」を強調した台詞を吐く。音や匂いといった非視覚的な注意力に優れた徳市の「目」が確かな事は、それまでの幾つかの場面で観客は知らされているのだが、高峰の秘密に関しては、徳市の早合点だった。そこに一抹の哀しみがある。徳市の推察力に感心した客の一人が、「俺が何を考えているか読んでくれ」と言い、徳市が「さすがに心の中までは分かりません」と答える場面があったが、徳市が人一倍神経を研ぎ澄ませていたであろう高峰についても、「心の中までは分からない」という点は同じであったという事だ。

それに、徳市の言う「私の目の届かない所」は、実際には存在しないだろうと思えるのだ、彼の言う「目」とは心の目の事であるのだから、彼が高峰の事を想い続ける限り、彼の「目」から彼女が去る事は無いだろう。

(評価:★3)

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