[コメント] 自転車吐息(1990/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
『自転車吐息』について語ろうとすることは、ゴダールのいくつかの映画について語ろうとすることと似ている。そこには、映像でしか突き上げられない感情を知らされる。人が、こういう形になって、こういう動きをする。それがヒトだ。ということに心を突き動かされるのだ。
とはいえ、園子温の作る言葉も映像も音楽も名作という範疇に入るものたちでは断じてなく。その胡散臭さが、安っぽくて、自然に傾いてしまうような様が大好きなのだ。
映画に挿入される高校時代に作ったという、「一塁」。これは、もう、これだけで名作だ。「草野球でおいた透明ランナーが、いつのまにか現れる」と、このプロット。この簡単明瞭な感触が園子温だ。
・また俺達から去っていく透明ランナー。この線はずっと遠くまで続いている。一塁べースは、遥か彼方に。そして、そこから浪人生活を送る俺達と、この続きを撮ろうとする映画。このシンクロ具合さ。予備校の上から降ってくる一塁ベースから、怒涛のラストまで、どんどん、ドンドン、何かが奥の方で鳴りつづけて、なかなか止めることが出来なかった。
園子温の映画について、よく使われる言葉の「焦燥感」。それは青春だけが持っているモノではない。カリカリした、感触。どれだけ歳をとっても、何かを成し遂げなければならないのに、何もできないサマ。それは、いつまでたってもダラシナク生きている者にとっては電源を消すことが出来ない、着信音のようなものだ。
-----ここから追記よ---------
そうね。そうね。そうなのね。と中村一義ふうに頷くあたし。 あたしが、最初にやられたのは、トレーニングで小児麻痺が治った妹のところ。そして、あの白いストッキングに運動靴ね。方向の方で、カタコ。方子。
それが大多数の人にどう見えるかはともかく、この人はキザで、自分ではカッコいい。というキッチリした枠を持ってる。俺旗を掲げて、それを疾走する。そして、そのサマを隣で疾走するカメラにとらせる。その風景こそが悦になってるだろうシオン。これがカッコいいと言わずして、世界に何がカッコいいと言えましょう。カリカリ。カリカリ。
自転車に死んでしまった圭太を乗せて走る。カリカリカリカリ。
透明ランナーが引いてしまった白線は、死に繋がってしまったのでなくて、あたしの体までクネクネと届いた。
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