コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ハイ・フィデリティ(2000/米)

僕たち男の子、君たち女の子。
crossage

男の子はいくつになっても夢見がち。そして男の子が夢を見てる間に、いつのまにか女の子は夢から覚めていて、ひとあし先に現実の世界に足を踏み入れている。女の子に置いてけぼりをくらって初めて、男の子は今まで自分がいかに身勝手で、オトナな女の子にオンブに抱っこしてもらってただけの子供だったかを思い知る。こうして「男の子」は現実を知り「男」に成長してゆく。

主人公(ジョン・キューザック)と初恋の相手(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)との馴れ初めエピソードは、アメリカ学園ラブコメ物が長年つちかってきた「冴えないナヨナヨ文系男子がモテモテのアメフトエース君を出し抜いて憧れのチアリーダーのハートを射止める」という王道パターンそのまんま。この王道パターンが言ってみれば文系男子のためのファンタジーだったとするなら、この映画はそんな文系男子のその後の「現実」を描いたお話。

でも、ここで「男の子」が着地した(しようとした)現実って、ホントに現実なの? 実を言うと、そういう成長物語じたいが「男の子」が見、そして語る夢(ファンタジー)なんじゃないかと。

それは、主人公が観客に向かって語りかけるという、この映画で取られている語りのスタイルを見ればわかる。かつて「冴えない文系男子」だった主人公が、そのかつての自分自身を客観的に眺める視点に立って、自分がどんなに身勝手で鼻持ちならないガキだったかを観客たちに告解し、釈明をする。メタレベルに立つことによって「自分がどんな人間だったかはちゃんとわかってるもんねー」というエクスキューズを保ちつつ、仲間の「男の子」たちには「な、わかるだろ」と同意を求め、「女の子」たちには「こんな僕を許してね」と甘えかける。結局なんにもかわってないじゃん!

単にメタレベルに立っただけで、「君たち女の子」にオンブに抱っこしてもらうことでようやく成立する「僕たち男の子」のファンタジー、この構造じたいは全く変わってない。ぶっちゃけた話、「男の子」は自分が「男の子」であるという認識に立っている時点で、けっして「男」なんかにならない(なれない)。結局いつまでたっても男の子は男の子のまんまだ。「男」になる夢を見ながら。いつか「男」になるというポーズでもって女の子たちを引き留めながら。「男の子」ってのはそういう人種なんだ。言ってみりゃ、どう振る舞えば可愛がられホメられるかを知ってて、計算ずくで無垢を演じてるガキと同じメンタリティ。そうして彼ら(僕ら)は歳を取り、いつの間にか「男」をすっ飛ばして「オッサン」になっちゃってる。現実ってそんなもんだ(*1)。はぁ悲しい。

でもってだからこれは、そんな現実を現実と知らしめることなく、手の込んだやり口でまんまとファンタジーに昇華させちゃったジョン・キューザックの語り口の勝利。「永遠の男の子」の面目躍如ってとこだろう。僕らは彼にまんまと乗せられて、それで結局は何も変わらないまま、女の子が部屋に来ればすかさずBGMをハードプログレからお洒落なボッサなんかに切り替えたりしてる。レコード屋に可愛い女の子(ナターシャ・グレッグソン・ワグナー)が来店するやすかさず店内BGMをステレオラブに切り替えた彼らと同じように。そう、自分用ミュージックと「ギャルこましの音楽」はあくまで別。ホント、そんなことまでこの人はよ〜くわかっていらっしゃる。憎ったらしいたらありゃしない。

----------------------------------------------------------------

(*1) ついでに言うなら、「男」ってのは、「男の子」と「オッサン」の間にあるものじゃなくて、もうこれはまったく別の人種。たとえていうなら「モテモテのアメフトエース君」、彼のような人間がなるものなんだな。えてして。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (6 人)ごう[*] あき♪[*] [*] たかやまひろふみ[*] tredair[*] ろびんますく

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。