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[コメント] パラドールにかかる月(1988/米)

ルパンのモノマネをしていたら、本当にルパン役にされてしまった栗田貫一のようなお話。だが、ナンセンスなエネルギーや、入れ替わり劇のダイナミズムに欠けるのが惜しい。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「表面的な、大衆ウケ狙いの演技」と自嘲する演技力で一国の支配者を演じるジャック。本来は宴会芸的なものでしかないモノマネで国家権力の中枢に居座る事になる展開は、国家権力なるものの皮相さを逆照射する。だが、独裁者自身、側近のロベルト(ラウル・ジュリア)に陰で怒鳴られるような立場であり、またコミカルなジャイアン的キャラなので、その彼とジャックが密かに入れ替わる事によるズレ、人間関係や政治的状況の好転や悪化といったダイナミズムが足りない。

演出に力がない。例えば、ジャックが独裁者の豪華な寝室に入って仰天する場面は、二人の地位や富の格差が際立つ場面である筈なのだが、単にジャックが驚いた表情で室内を見回しているというだけで、ショットの構図なり何なりに工夫が感じられない。また、ジャックの演じる独裁者のエアロビクスに国民一同参加する場面も、聖職者から囚人まで同じように踊っているとか、広場に大群衆が集まって一斉に踊っているだとか、頭で考えた「可笑しさ」を提示して見せているだけで、画面からそのバカバカしさの熱気がまるで感じられない。

舞台『エビータ』への言及や、その内容とよく似た、パラドールの独裁者と愛人マドンナの関係など、既存の舞台を引用したり、「ロバート・デ・ニーロダスティン・ホフマンと共演できるなら死んでもいい」と、実在する俳優の名を言わせたり、メタフィクション的な構造にも、自己言及的な破壊力もなければ、小粋なユーモアもなく、特にどうという効果も上げていないように思える。

最後にジャックが街を上機嫌で歩きながら、例の独裁者の身ぶりで敬礼して回るシーンは、人知れず名演技で一つの国に革命を実現した役者の矜持が光る感動的な一場面だった。この場面がなければ、全面的に見るべきもののない映画で終わってしまっただろう。独裁者の権力を継承したマドンナの様子をテレビでジャックが見る場面なども、テレビ俳優として知られる程度の役者であるジャックが達成した知られざる偉業の輝きが感じられる、良い場面だった。

(評価:★2)

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