[コメント] 雄呂血(1925/日)
さらに、教科書的な知識欲を満たすとか懐古趣味的な興趣とかにとどまらない、現在見ても、映画として亢奮させられる造型に溢れている。
これは前年の『逆流』の時点で既に云えることでもあるが、わずか数年前の牧野省三『豪傑児雷也』と比べて全く異なる映画だ。それは決定的にカメラワークとカッティング、及び舞台的な(歌舞伎的な)型の約束事を開放する擬闘の演出だ。映画のエッセンスという意味においては、何と云っても自由なカメラの視点の獲得と「切り返し」などの繋ぎによるその(自由な感覚の)増幅だと私は思う。しかもそれが極めて理知的にコントロールされていると感じる。
例えば、全編のハイライトは、終盤の大捕り物(大立ち回り)シーケンスの中での、高い俯瞰の視点で、かつ超然と後退移動する長回しショットの挿入だと私は思うのだが、こゝは主人公−阪東妻三郎の悲壮な運動を最大限に客観化する造型だ。あるいは、本作のディゾルブ繋ぎの多用は特筆すべきレベルだ(今では滅多に使われない技巧だが、サイレント後期頃は世界的に大流行した繋ぎだと思う。それにしても多く使われる)、これを単なる時間経過の表現としてだけでなく、さまざまな感情を画面に付加することが意図されて使われている。序盤の無礼講の宴会場面で連打されるディゾルブ繋ぎは、冗長さや倦怠感を、終盤のヒロイン奈美江−環歌子が手籠めにされかかるシーンのディゾルブは、弱者の悲哀をフィルムに定着する、といったことだ。
また、前年の『逆流』(欠落版)ではまだまだ切り返し「もどき」しか確かめられなかったけれど、本作では真正の「切り返し」があるということも指摘できる。冒頭の奈美江と父(阪妻の恩師)−関操のショットと、阪妻との繋ぎ、宴会場面における家老の息子−浪岡と振り返る阪妻との繋ぎ。中盤で2階の欄干から汁物をかけられた阪妻が、店の番頭と相対する場面の繋ぎ。これらは、一人ずつ、イマジナリーラインを意識した決定的な「切り返し」の演出だ。
他にも、阪妻の妄想のようなイメージ処理で、奈美江や居酒屋の娘お千代−森静子を黒バックの画面に浮かび上がらせるショット挿入だとか、お千代にせまる阪妻のエクストリームなクローズアップだとか、終盤の大立ち回りのシーケンスの中で、長回しとは対照的な、捕り手たちの短いサブリミナル効果みたいなショット挿入にも一驚を吃した。
尚、阪妻もそうだし、赤城の親分−中村吉松もそうだが、メイクは歌舞伎の隈取の名残があることと、ドラマ部分の大仰な芝居、といった領域はまだまだ今後の革新を待つ部分だ。臭い芝居を引っ張る演出は、活動弁士の喋りの時間を意識して間を取っているようにも感じた。
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