[コメント] マン・オン・ザ・ムーン(1999/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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カウフマンの芸に対する演出が「笑えるものとして」なされているのか「笑えないものとして」なされているのかはっきりしない。繰り返すが、問題は私たちが実際に笑えるかどうかではなく、「として」の演出がしっかりとなされているかどうかだ。たとえば、マーティン・スコセッシ『キング・オブ・コメディ』はその後半において、明らかに笑えないロバート・デ・ニーロの芸を「笑えるものとして」演出しており、その意図的なねじれがすぐれて不気味であった。アラン・パーカー『フェーム』における少年スタンダップ・コメディアンの漫談はときに「笑えるものとして」、ときに「笑えないものとして」、正しく区別的に演出されているため、観客たる私たちが実際に笑えたか否かとは無関係に劇は適切に展開する。もちろん、カウフマンの芸は単純に笑える/笑えないという次元にはないと云う向きもあるだろう。そうであるならばそのことに見合った演出もあろうが、しかしそれが模索された気配も希薄だ。
さて、アンディ・カウフマンについてこの映画を見た上で云えることは、彼は生涯をかけておのれを虚構の存在に仕立てようとした人間であるということだ。「トニー・クリフトン」の創出や「悪役レスラー」の模倣がその試みのひとつであったことは云うまでもないだろう。また、あの終盤の葬儀シーンが感動的であったとすれば、それはモニタ内の彼が発信するメッセージの優しさのためなどではなく、現実の自分を殺し、モニタという虚構の中に自らをうずめるという徹底した虚構化の振舞いのためだ。そうであるならば、この映画がつくられたこと、それもボブ・ズムダやダニー・デヴィート、ジェリー・ローラーやジョージ・シャピロといった生前のカウフマンと関わりのあった、またカウフマンの遺志を継ごうとする(ように見える)人々の手でつくられたことは、ある種の必然だったのかもしれない。キャリーという絶対的に他者でしかないありえない俳優がカウフマンを演じること。それはカウフマンの虚構化にほかならない。キャリーの物真似が実に念に入ったものであるゆえ、なおさらそこに強く浮かび上がるのは虚構としてのカウフマンでしかない。「映画」によってカウフマンの虚構化は完遂される。
ここで「映画」とは、云うまでもなく、有史以来の人類が持ちえた(おそらく「言葉」に次ぐ)最大の虚構化装置の名である。
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