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[コメント] マン・オン・ザ・ムーン(1999/米)

ジョークと現実の境界線をギリギリまで侵犯する、その予測不可能性からこそ生じる‘リアル’。笑って良いのか緊迫するべきなのか、一瞬一瞬で問われる観客は、単なる傍観者ではいられない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ジム・キャリーには、こういった、常識的には区別されるべき虚実の境界線を踏んでしまった人物を演じた作品が幾つかあり、ミロス・フォアマンには、このような、常識人がその発想についていけないような人物を描いた作品が、幾つかある。また、脚本の二人を見れば、過去に『エド・ウッド』や『ラリー・フリント』を書いていた経歴が見つかる。この、或る意味‘魔の三角形’とも呼べる組み合わせによって、「世界は全て、チープな幻想だ!」という、破壊的笑いの渦に観客を悪酔いさせるような作品が出来上がった、といった感。

で、この映画、そんなに笑えたか?と訊かれたら、ううん、そんなには、と答えざるを得ない。笑いというよりは、妙な緊張感を覚えてしまった。主人公アンディ・カフマンが、いつなんどき、その場の空気を台無しにするような破壊的言動を行なうか、予測がつかないからだ。笑いが、緊張感からの解放にあるとすれば、アンディの芸はその予測不可能性や、嘘の現実味が高すぎて、緊張感が持続しすぎてしまうのだ。

反面、その緊張感のおかげで、二時間ほどある鑑賞時間中、全く退屈せずに観られた。実は、この「笑えはしなかったが、退屈もしなかった」というのが、この映画の肝心な所なのではないか。そして、劇中で、それ自体が何か冗談めいて見えかねない、あの瞑想にまつわる箇所は、この映画の核なのではないか。つまり、アンディが言うように、「この世の全てが幻想」であるのなら、常識という安全弁をギリギリまで緩め、何か予想もつかない出来事をクリエイトする事こそが、人生そのものなのではないか?テレビの効果音としての笑いを「死人の笑いみたいだ」と拒絶するアンディにとって、お決まりのパターンで、お約束のように湧き上がる笑い声など、スカスカの、無意味な物音に過ぎなかったのではないか。それよりは、本物の感情から湧き上がるブーイングの方が、よほど世の中を生き生きとさせる――そんな思想さえ感じられた。

その結果、自らに迫る死すら、近親者にさえ信じてもらえない狼少年と化したアンディ。だが、「世間の人々に癌だと知られたら、マイナスの波動に襲われる」と案ずるようなアンディにとっては、むしろ、自身の病気をなかなか信じてもらえない状況というのは、自業自得な半面、彼の抱く唯幻論的な思想を周囲に感染させる事に成功したのだとも言える。

そして、マイナスの要素を排した舞台を、念願のカーネギー・ホールで実現させた彼は、舞台上で、かつてカウガールだった老婆の復活劇を演出して見せるのだが、いよいよ死が迫ってきたアンディが、わざわざフィリピンに行って受けた奇跡の療法がトリックだった事を知ったときの心境は、どんなものだったか。「全てが幻だ」と言い、自ら数々の幻を創造してきたアンディも、やはり命は惜しかったのであり、その最後の現実すら、チープなトリックによって破壊される。そして彼は、打ちのめされると同時に、トリックスターとしての生き様を完成させたのだ。瞑想や神秘の力で癌という現実を変えようというのが、自分の幻想に過ぎなかったのだと気づかされる事で、受動的に幻に引き込まれる在りようを脱し、自身が能動的に人々にイメージを提示するエンターテイナーに徹して死んでいく。自らの死という現実を受け入れていなければ、死後の葬儀で流す為のVTRなど準備できなかっただろうし、その映像の中で「隣りの人に腕をまわして歌ってくれ。たとえその人が嫌いでもね」というメッセージを伝える事も出来なかっただろう。

アンディが変装して作り上げた第二の人格とも言うべき、トニー・クリフトン。相棒のボブに代役をさせる事で、同時に舞台に立ち、トニー・クリフトンを別人格として観客に認知させたあの芸があったからこそ、最後の場面が利いてくる。アンディの死後、再び舞台に立つトニー・クリフトン。本来は彼を演じるのはアンディであり、その意味ではアンディが復活したようでもあるが、アンディとは別のタレントとしてのトニー・クリフトン、という前提で見れば、それはそれで、アンディが作り出した幻が、現実の肉体を得たかのように思える。これは、反転図形のように、どちらにも見えるのだが、どちらにせよ、本来はある筈のないものが目の前に存在する、という奇跡が起こっているのだ。勿論、チープなトリックによってだ。だが、世界そのものが、そのトリックに吊り合うようなチープな幻なのであり、アンディの言葉によれば「深刻にとらえる事はない」――僕の死を深刻に考える事はない、皆、笑ってくれ。そんな風にアンディが言っているような、ラスト・シーン。トニーはアンディの死をネタに観客を笑わせる。自らの死を超えて、幻として顕現する大嘘つき。まるでチープなキリストのようだ。

この映画を見ている間、なぜか哲学者ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論の事を連想していた。プレイとルールの不即不離かつ、それ自体は語りえない関係性。そして常に既に言語ゲームの中にある僕らの活動の外に「現実」なるものは想定し得ないという事――。そういえば、ウィトゲンシュタインの顔を思いっきり濃くすれば、ジム・キャリーに似ていなくもないような(笑)。

(評価:★4)

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