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[コメント] アレクサンダー大王(1980/伊=独=ギリシャ)

漆黒の闇、黒衣の群衆、黒が蠢く映画
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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石造の村の美しさは箆棒であり、そこをわらわら行進する群衆と、くるくる回るキャメラが交錯するシーンは全て映画の快楽が詰まっている。主題への求心力とは関係なくただただ面白い。カットが変わる度にもっとやれよと我儘な不満を覚えるのであり、3時間以上の作品だがまだ短尺だと感じる。後半に進むにつれて次第にアクションを増す構成も当然なのだろうが巧い。

ただ、石造の村を迷路として捉えたキアロスタミの奇矯な面白さと比べれば、本作は美し過ぎてまだ発展途上という気もする。無いものねだりですが。ポリフォニックな音楽は異様で映画にマッチしているが、『2001年』のモノリス登場の音楽に似過ぎているのが難。なんか笑っちゃう。

夜の空が漆黒の闇であるのは当時画期的であり(ゴダールがベタ褒めしている)、青みがかったアメリカの夜の手法を急速に古びたものにしてしまった。本作ではこの漆黒が『旅芸人』以上に全面フューチャーされており、高低差を活かした舞台で黒衣の群衆はしばしばこれに溶けこみ、美しいことこのうえない。

どこもいいのだが、例えば時空を横断して登場するちょび髭の案内人が登場する件はどれも素晴らしい。冒頭のアレクサンダー登場(20世紀始めの朝の大王登場は実に象徴的)、中盤の大王の当人も出てくる戯画的な遺跡紹介(ラストで紹介のある『ラスト・エンペラー』辺りの律儀さと比べるとこの破格さは際立っている)、そして終盤の唯一ひとりになり中庭をなぜかキャメラ目線で逃げ回る件。超重量級映画のなか軽やかな喜劇的人物が飛び回る演出が素晴らしい。

映画は心理的描写を極力避けて神話ないし寓話に近く、共産村(このコミューンはむしろアナーキズムに近い)の崩壊を淡々と語る物語に求心力はない。監獄から戻ったアレクサンダーの部下たちは共有財産付託を拒み(先祖のものだと)、羊の大量虐殺から初めて内破に至る訳だが、これに説得力はない。事象を眺める視点は遠点にある。

この手法を採用した積極的な理由は、この崩壊の事態を大王たちの人となりに求めなかったということだろう。あんな人じゃなければこうはならなかったのに、という心理的説明の拒否により出てくるのは、大王がどんな人物だろうがこの悲劇は必然的に起きたのだという構造的な指摘である。つまりそれは、スターリンの人となりなど関係なく帝國的共産主義は駄目だったのだと云うことだろう。私は後期の心理的でセンチなアンゲロプロスも好きなのだが、そこから本作を振り返れば、やはりこの手法は水際立っていると思う。

アレクサンダーが自分の育ての母(妻)にも射殺命令を下す件は神話的な残酷に溢れ、大王と理想に溢れた少年期の大王が同じフレームに収まるトランジション・ショット(母の死を見る件)には、取り返しのつかない事態を捉えて生々しい。クライマックスの土俗的な大王殺害の跡に現れるのは、本作の豪勢な美術に余りにも不釣り合いなチープな胸像。この間抜けなショットに映画は万感の想いをこめている。そしてラストで大王はギリシャの町中に放たれる。

アンゲロプロスは、アレクサンダーはスターリンだと明快に語っている。私にはよく判らないのは、この大王が洗礼を施し最後の晩餐風な食事を取るような件。もちろんアレクサンダーの時代にキリスト教はない。これもスターリン批判なのだろうか。

私がたぶん最初に見た、当時云う処の「アート映画」(!)。京都の祇園会館で学生時代だったのだが、ほとんど熟睡していた。訳が判らなかった。ただ冒頭の大王登場だけは目覚めており、それは驚異で、夢か現か判らず、感動しながらまた寝てしまったのだった。よほど眠かったのだろう。しかしこのショットは私の生涯で最高のものになった。

(評価:★5)

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