[コメント] ポーラX(1999/日=スイス=独=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ピエールの姉と自称する女の登場によって、映画は、映る光景は田園から都会へ、流れる音楽はクラシック調からロックへ。序盤の田園風景の中には登場しなかった動物たちが、却って舞台が都会へ移ってから溢れ返るのが面白い所。鉄とコンクリートの世界でこそ野性が解放される訳だ。
ピエールは、「この世を越える事をずっと望んでいた」と、姉と名乗る女、イザベルに告白する。このイザベルは、黒髪の女。冒頭の戦争シーンや、森の中でピエールに自分の生い立ちを長々と語る場面、ピエールと肉体関係を結ぶ場面などが、深い闇に包まれた映像で描かれているのは、彼女がその黒髪のように闇の存在だからだ。ピエールの婚約者であるリュシーが金髪の女であるのとは対照的。そして同じく金髪のピエールは、その美しい容姿が、イザベルと共に堕ちていくにつれて、別人のように惨めになっていく。
ピエールが、イザベルの部屋だと思って(?)ドアをぶち破って入った部屋は空っぽで真っ暗、一瞬灯りが点いて、窓ガラスにピエールの姿を映し出すが、すぐにショートして消える。この場面は、謎めいているというよりは空虚な存在であるイザベルを象徴する場面であり、闇を照らす一瞬の火花に自らを見出すピエールの暗喩ともなっていた筈。この二人が一緒に暮らす部屋でも電灯がショートし、彼女は、自分のせいだと膝を抱える。
ピエールは、イザベルに導かれるように「この世を越え」、「全く別人になれた」事を彼女に感謝するが、それは結局、この世から爪弾きにされ、以前の、幸福で、輝かしい自分を失う事だった。そして、もう元には戻れなくなった彼の状況を如実に語るのが、過去に「アラジン」という筆名で名を馳せた作家として、人々の前に、光の下に現れた場面だ。そこで彼は徹底的に失敗する。アラジンとして語る事が出来ず、言葉に詰まった挙句「無理だ!」と叫び、観客から「贋物!」と罵倒される。
イザベルには、「以前の自分が構想していた作品は無意味だ」、「最悪の疫病よりも最悪な本当の真実を描きたい」と、意気盛んな様子で語るが、「アラジン」としての自分を見失うと同時に、以前から付き合いのある編集者からは「貴方は成熟した作家になりたがっているが、貴方の良さは未熟さにある」と諭され、新作を送った出版社からの返事では「模倣でしかない」と批判される。零落れたピエール自身が、「疫病よりも最悪な真実」そのものと化したかのようだ。
放浪するピエールとイザベルが連れている、不法移民らしき母娘は、二人の姿を投射した影のような存在なのだろうか。ピエールが動物園で娘の方に「象は人間が嫌いなんだ、臭いから」と言ってギュッと抱きしめる場面は、この世に安住できる場所を持たない彼らの立場を感じさせる。だから、この娘が道行く人を「臭い」と言い、それに怒った男に殴られて死んでしまう事、更には、それを警察に通報する事も出来ない事は、この世に場所を持たないピエールとイザベルの暗喩となっている。この母娘との四人で、中国人がカラオケを歌う異国風の店で幸せそうに笑い合う場面は、「この世を越えた」場所を垣間見ているピエールの、最後にして最大の、幸福な時間であった筈。そもそもイザベルもまた、異国からやって来たらしき女なのだ。
リュシーの弟ティボーに会いに行ったピエールが、「誰だ」「追い出せ」「詐欺師」と、無視され、追い出される場面で、ティボーは大音量でロック音楽をかけ、パーティの真っ最中。この雰囲気が後に、例の母娘と別れ、二人きりになったピエールとイザベルが身を寄せる芸術家集団(?)のファクトリー(とでも呼んでおこう)の雰囲気に似ているのが、ちょっと面白い。考えてみれば、ピエールの彷徨は最終的に、このティボーを殺す事で幕を閉じるのだ。その現場に駆けつけたイザベルとリュシーは共に、「弟なの」と訴える。そしてイザベルは自ら車に身を投げ出す。一方では弟が死に、片方では姉が死ぬ。どちらも、黒髪の人間が死んでいる。まるで闇に帰ったかのように。カフェでピエールの後ろから彼を見つめるイザベルの存在を告げたのもティボーであり、ピエールに婚約者がいる事をイザベルに告げたのもティボー。ピエールは、自らの影を殺したのだろうか?
ファクトリーの連中は、ピエールの狂気、芸術と破壊へ向かって突き進む狂気の集団的表象でもあったのだろうか。彼らが、女のマネキンを標的に射撃訓練をする場面は、それがピエールの破滅的恋愛を象徴しているのかどうかもよく分からないままに、ともかく印象には残った。あの母娘と観に行った動物園では檻の中にいた動物たちが、ファクトリーでは勝手に歩き回り、犬たちは鎖に繋がれてはいるものの、盛んに吠え立てる。人の世の外なるものが解放された世界。犬のように人間たちも、エレキギターで吠えている。そこはまるで要塞であり、イザベルがテレビで、地下鉄爆破で死者が出たという報道を見、ピエールの身を案じて駆け出す場面は恰も、ピエールの‘戦死’を案じたかのように見えてくる。
ピエールに捨てられ、正気を失ったリュシーに、ピエールが優しくなり、彼女の事を「従姉妹」だという事にして匿うのは、狂気の内にある彼女が、彼の望む「この世を越えた」存在になっているからだろう。そうしてイザベルとの間に亀裂が入る。ピエールはイザベルに「弟と呼ぶな」と言っていたくせに、彼女を急に、愛称でなく、「姉」と呼ぶのだ。そうした状況の中の一つの場面で、イザベルとピエールが口づけをしながらドアに寄りかかると、ドアが開いて口づけが中断させられる――ここに二人の関係の変化がさり気なく表れており、こうした所がカラックスの巧さ。彼の映画にはこのような、何気無さの中に独得の閃きの感じとれる場面が無数にあり、これは多分、彼の最大の美点だ。
それにしても、ピエールは母を「姉」と呼び、実際に姉である筈のイザベルは「ベル」と愛称で呼ぶ恋人にし、恋人であったリュシーは「従姉妹」と呼ぶ。血縁関係と、言葉の上での関係とが齟齬をきたし、その齟齬=嘘が、対象に向けられた感情という真実を浮かび上がらせる。いまだ美しさを保つ母の裸体を見つめ、母もそれを平然と受け入れているピエール母子の関係にも近親相姦の匂いがする。いなくなったピエールを捜す母がバイク事故で死ぬ場面は、ピエールがイザベルを追ってバイクで転倒した場面と重ねて見るように、観客を促がしている筈だ。また、ティボーを撃ち殺す直前にピエールが吐く台詞「これで俺たち一族を絶やしてやる」には、この男への、単なる憎しみではない同一性の感情を感じとれる。街の屋台で古本として並べられていた父の本を見つけたピエールに「これが父だよ」と告げられたイザベルは、何やら呆然としたような表情を浮かべていて、彼女の記憶の中の父の顔と違っていたのか?と観客の疑いを誘う。
この映画に於いて、登場人物たちの真の関係とは一体、何であったのか。結局それは謎のままに、ただ関係の糸が全て断ち切られてバラバラになる彼らの姿だけを見せて、この映画は観客との関係を断ち切る。
こうして色々と分析し、また、そうした分析だとか解釈からは零れ落ちるような、純粋にカットの組み合わせだけで鮮烈な詩興を感じさせるカラックスの手腕には感心させられはするものの(その辺の才能に関しては、映像詩のA.ランボーと呼んでも良いのかも知れない)、僕はどうも、この監督の作風が好きになれない。上述したような、この世に居場所の無い恋人たち、とか、行き場も無い情熱とその挫折、といったものは、どれも、それ自体が目的化しているように思え、その幼さに苛々させられる。
この監督の映画に登場する人間たちは、その人生から怒りや悲しみの爆発を結果させているというより、そうした感情の爆発がまず目的で、その感情の導火線に火を点ける為に必要最低限度の人格しか与えられていないような印象がある。心理描写と呼ぶに値するものをこの監督の作品から読み取るのは、僕には困難だ。彼の描く人間は、人間というより、監督の一瞬一瞬の感情の爆発を代理表象する、火薬の入った入れ物か何かのようだ。
特にイザベルは、宿命の女としての魅力も感じられない、地味な女にしか見えず、闇の女というより、ただの暗い女といった感。そもそも人格を持った存在とすら感じられぬ、空虚な記号のようだ。ピエールとの近親相姦という禁忌に伴う恐ろしさも荘厳さも何も無い。カラックスは表面的なイメージ作りに長けてはいるが、切れば血が出るような生々しさを感じさせる人間を描くのは不得手な方に思える。彼の作品に出てくる登場人物も皆、衝動的で頭の悪そうな人間ばかりで、すぐに他者か自分自身に向けて暴力を振るう。実はカラックスって、派手に物を壊すのが好きなだけの、幼稚な人なんじゃないか…。
好きな人には堪らん作家なんだろうけど、僕の趣味から言えば、場面作りは巧いが、映画作りには向いていない監督、という感じ。マイケル・ウィンターボトムの方が、まだ好みだ。僕にとっては、やや極端な言い方をしてしまうと、「突然変異したアクション監督」といった位置づけであり、それは今度『TOKYO!』というオムニバス映画に寄せた新作でも証明されるかも知れない。ドゥニ・ラヴァンが東京を爆薬や何やらで破壊していく作品だそうで…。
この映画の物語的な巧さが、果たしてどの程度、原作者メルヴィルの力に拠っているのか、が気になる所。また一つ、読まなければならない小説が増えたなぁ。ポーラが出てこないのが腑に落ちなかったのだが、ネットで拾った情報によると、フランス語での原作タイトル≪Pierre ou les ambiguites(ピエール或いは複数の曖昧さ)≫を略して未知数「X」を加えたのが、映画のタイトルであるらしい。こういう遊び心は好きだが、タイトルすら言葉遊びにしてしまうカラックスのセンス偏重には、厭味を感じないと言えば嘘になるな。複数の曖昧さに更に未知数を加えて、意味ありげな、だがその実、単なる思いつきでしかなさそうなカラックスの意味不明さに苛立つ僕は、心が狭いんだろうか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。