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[コメント] ベティ・ブルー/愛と激情の日々(1986/仏)

ベティの狂気と情熱に、男の狂気と情熱も沸騰させられる。だが、その激しさは殆ど、二人の間の亀裂に希望も絶望も流れ落ちる、滝に似た激しさ。これは冷酷な反恋愛映画ではないのか?[完全版]
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







もっと深刻な映画かと思いきや、意外と笑える場面も多く、ベティのヒステリーすら、最初の内はどこかコメディ・タッチ。ほのぼのと楽しみつつも、僕は「貴方には才能があるのよ!」の思いに狂っていく女の激しい情念の映画を観るつもりだったのだが…、と、違和感。しかしまた、次第に物語が狂気に蝕まれていくに従って、却ってこの映画の隠れた設計図のようなものが覗けて見えてくる。情熱の赴くまま物語が疾走していく、という手合いの映画とはやや違う印象を得た。

この映画全篇を通して疑問を覚えるのは、ベティはゾルグにとって、彼自身が無意識に求めていた狂気と情熱そのものに見えるのだが、果たしてゾルグはベティにとって、そのような存在だったのか、という事。また、ベティは本物の作家を見出すような眼力のある女だったのか、という事も、気にかかる。ベティの情熱が、最後に出版契約という形で実を結んだのは、まぐれ当たりに近いものであったのか、なかったのか。

彼ら二人がいつも裸で部屋の中をうろついているのは、部屋の壁を下着や服だとすれば、二人はその中に一緒に収まっている存在、一心同体だからだろう。二人の間を隔てるものは何も無い。アダムとイヴのように、二人の楽園に暮らしている――ように見える。ピアノ店の壁を壊して部屋を広くしようとハンマーを振るうゾルグは、ベティに「『ランボー』のスタローンみたいだろう?」と冗談を言う。だがベティは、「いいえ、貴方は作家よ」。ゾルグ「壁をぶち抜く事と関係無いだろ」。ベティ「そうは思わない」。作家とは、「壁をぶち抜く」仕事なのだ。そしてベティは、彼が壁を破る様を、飛び散る破片を受けながら見守る存在だ。

ベティが、妊娠検査薬の結果をゾルグに報告する場面の後、ゾルグがそれを全面的に喜んでいないような様子を覗わせる場面が幾つかある。この報告を受けた直後、売り物のピアノを運ぶ為に大型車で疾走するゾルグは、子供が出来るのが嬉しくて張り切りすぎた、とも見えなくはないが(彼自身、速度違反で切符を切ろうとする警官にはそう言っている)、何か自棄になっているようにも見えてしまう。実際、同乗している牛乳屋の男には、「様子がおかしい」と言われ、ゾルグの答えも「遅れてるからだ」と苛立った様子。そして、危うく乳母車(!)を轢いてしまいそうになるのだ。また、サーフィンに行く資金稼ぎに大麻を売ろうとする男にも、「金色の砂、ハワイ、波、太陽、そんなものは存在しない。どこも血の海だ」と毒づく(後に、ベティが目を抉った事で、二人の愛の巣は血の海になる。また、産婦人科の結果が陰性だと分かる直前、二人が抱き合う寝室は、灯りに赤い布が掛けられて、部屋が真っ赤に染まっている)。更に、疲れて眠り、相手にしてくれないベティにゾルグが「起きてくれ」とか「勝たせてやるからゲームをしよう」と呼びかけ、それでも目を覚まさないと「なんて女だ」と罵る所。「酷いよ。僕は一人ぼっちだ」と呟く言葉に本音が漏れている。そして彼はベティの代わりに白猫に見守られ、執筆をする。

この白猫は、ゾルグがベティに投影している何ものかの暗喩だという事が感じ取れる。単に「狂気」や「見守る眼差し」など個別の意味が宛がわれた暗喩として見るのは単純に割り切りすぎだが、多義的な一つの象徴であるのは確かだろう。ベティが子供を誘拐した日の夜、ベティと白猫が一緒にベッドに居る場面は、生身のベティと、ゾルグの頭の中のベティが分離し始めた徴候のように思え、そう考えると戦慄的な場面だ。ベティがゾルグに殺害された後、独り執筆をするゾルグの傍には、やはり白猫が居る。加えて、「頭の中で声が聞こえる」と言っていたベティと同様、ゾルグの頭の中にも、ベティの声が響く(だが、ベティが聞いていた声は、誰のどんな声だったのか)。ベティはその声に怯えていたが、ゾルグはベティの声に包まれて、安心している様子だ。

ゾルグが、妊娠検査薬の結果を信じて、生れてくる筈の子の為に服を買って帰ると、ベティが、彼女曰く「天才なのにピアノが無い」少年に、店のピアノを弾かせている。この場面、意外に、ゾルグが牛乳屋の女房に言い寄られる場面と表裏一体なのかも知れない。この女は「子供を生んでから、旦那がベッドの相手になってくれない」と訴える。逆に、ベティが母親になったら、ゾルグに全てを捧げるような女ではなくなってしまうかも知れない事を、暗に予想させてもいるのではないか。ゾルグは「天才なのに」、自分を信じる気持ちや、出版社から拒絶されても諦めない情熱といったものが、無い。ベティはその欠落を埋める存在であり、またそうなった時点で、彼女は恋人という以上の存在となり、同時に、ただ純粋に恋人として愛せる存在ではなくなる。

赤い灯りに染まる部屋で二人が抱き合う場面で流れるゾルグのナレーション「避妊リングは強風で外れたドアのように思えた」は、ベティにとって二人を隔てる「壁を破る」筈の‘妊娠’という出来事が、ゾルグにとっては安心できる愛の巣が風雨に曝される事を意味しているのを、告げてはいないか?

産婦人科での検査の結果が陰性だった事を知ってショックを受けるベティ。その姿を遠くから見ながらゾルグは「彼女は存在しないものを求めている」と言う。その、「存在しないもの」のもう一つである、彼自身の本の出版が実現し、それを告げてもベティが正気に戻らなかった時、ゾルグは、彼女にとっては庇護し育てる存在、つまり子供のような存在の方が必要だったのだという真実を突きつけられたように感じたのではないか。その時既に、ベティは片目を抉り、その意識も、ゾルグと共有していた世界から離脱しているのだ。妊娠検査薬の名が「アトランティスの砂」だったのも意味深。アトランティスとは、伝説の大陸であり、その砂とは、有ったのか無かったのかも分からない大陸の痕跡だ。

妊娠が間違いだったのを知って傷心のベティの為に、ゾルグは銀行強盗をする。だがベティは金を見ても喜ばない。強盗を働いたのは、ベティの誕生日に広原で「ここから見える全てを、君の為に買い取ったよ」と告げた言葉の通りに、彼女に何でも与えられるほどの金を求めての行動ではあったのだろうが、存在しない子供への思いばかりを募らせていく彼女の思いをつなぎとめる為、作家として成功したら得られる筈の金を今すぐに得よう、という焦燥感に駆られていた、とも見える。「あの小屋も、長城も、全て君のもの」とゾルグが告げた場面そのものは、‘言葉’で全てをベティに捧げようとする、いかにも作家らしい愛情表現だったのだが…。

強盗の際、他に変装のしようがありそうなものなのに、わざわざ女装して、ベティが着ていたような真っ赤なドレスを着ていたゾルグ自身も、ナルシスティックに自分の中の理想の女と一体化しようとしているかに見える。二度目の女装で病室に忍び込むのは、ベティを殺す為。ゾルグは生身のベティ自身というより、彼の心の中にいるベティと添い遂げる為に、現実のベティを消去したのだとも言えないか?つまり、ゾルグは二重にベティを殺害したと言える。強盗をしたゾルグから、アリバイ作りの為に「一緒に居た、と言ってくれ」と頼まれたベティは、虚空に視線を向けたまま、「茶色の髪の美人とセックスしていたと言うわ。美人と…」と呟く。ベティもまた、ゾルグが、目の前の生身の自分を見つめてくれる存在でなくなりつつあるのを感じ始めていたかのように。

ベティが片目を抉るのは、彼女がゾルグとは、半分、別の世界を見ていた事の暗喩のように思える。そして、残った片目さえも、最早ゾルグを見つめる事はなくなっている。彼の傍に居て、彼の才能を全肯定してくれる女としてのベティ、部屋の中を歩きまわり、彼にあれこれと声をかけてくる存在としてのベティ、それは結局、彼自身の頭の中の言葉、声でしかない。最後に、ベティの幻の声が言う、「書いていたの?」。ゾルグは言う「考えていたんだ」。彼がそう返事をする相手は、机の上の白猫だ。

「貴方は偉大な作家なのよ!」という思い込みで突っ走るベティにゾルグが唯々諾々と従って見えるのは、実はそうしたベティの言動が自分の望みそのものだったからではないか。そうした、男の狡さや卑怯な所を感じてしまうのも、あながち、取り立てて皮肉な見方だとは言えないだろう。女が一方的に男を振り回しているように見えて、その実、男にとって都合の良い女にされてしまっている。そうしたズレを、この映画はきちんと、だが、細かい部分での違和感に敏感な観客にしか感じ取らせないような、控えめな形で表現している。

ゾルグの奏でるピアノの旋律に合わせて、ピアノの弾けないベティが拙い伴奏をする場面は、二人の関係を象徴している。また、二人が完全に一つに溶け合って一心同体に感じられるのは、広原で抱き合う場面でもなく、激しいセックスでも、狂乱したベティをゾルグが抱きとめる場面でもなく、この二人の合奏、目に見えない音楽だけだと感じる。だからこそ、この曲が劇中に何度も挿入されるのだろうし、お互いのエゴをぶつけ合い、幻想を投影し合っていただけとも思えるこの二人も、どこかで一つになれていたのだ、という一抹の救いを感じさせてくれる。

「蓋を閉めたらピアノは死んでしまう。私は生きたピアノを売ります」と言って店のピアノの蓋を全て開けていったゾルグが、ベティを死なせた後、独りピアノの蓋を閉めていく場面に漂う虚無感。全くピアノが売れないゾルグが少し店を空けている内に、ベティが一台売ってしまうのも、他人の表現意欲の手助けをする立場の人間と、そうではなく自分自身が表現したい人間との違いを表しているようにも見えた。

(評価:★3)

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