[コメント] アルマゲドン(1998/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ウチの母親は、自分の趣味に対して一応の理解を示している。だがあくまでも“一応”であり、○月○日に同好の志が集うオフ会へ行く、と言うと、物凄く微妙な顔をする。あえて言葉で表現するなら「ま、好きな者どうしで楽しくやんなさい(笑顔ではなく言う)」という感じか。確かに親からすれば、息子が特撮怪獣バカになるなど想いもしなかっただろうし、その情熱をもっと別のところに向けてくれればなあ、と少なからず考えている可能性は否定出来ない。親不孝者かなぁ、俺は。
とはいえ母も映画は嫌いではないので、興味を持った作品ならばレディースデーを狙って劇場に足を運ぶこともある。それに限らず、俺が中学時代の時は「ゴジラを観に行こう」といえば一緒に来てくれていた。俺の趣味にきちんと着き合ってくれた母親に、この場を借りて改めて感謝しよう。
閑話休題、『アルマゲドン』の話だった。ある日『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』DVDを購入し、居間のテレビで観ようとした。ちょうど夕食時だったので、計らずも母とともに鑑賞することとなったのだが、これが予想以上に好感触だった。何と母は、戦没者たちの残留思念が憑依したゴジラが、戦争をすっかり忘れた日本を再び襲おうとしている、という設定に感心していたのだ。そしてラスト、ゴジラの体内から攻撃をした宇崎竜童が、ボロボロになった潜水艇から無事に帰還したのを観て、こう言ったのだ。
「よっしゃ、この終わり方気に入った!」
俺「……その喜び方はどういう意味?」
母「だってさ、アメリカの映画だとこういう場面はたいてい死んじゃうじゃん。私はああいうのが嫌いなのよ。」
そう、私の母親は、例え地球の命運がかかろうと、何千何万もの命を救うものであろうと、誰かが犠牲になって解決するという姿勢が嫌いなのだ。そのためか『インデペンデンス・デイ』のあの展開も当然のごとく母は嫌いだという(ちなみにID4は父親が大好きな映画である)。つまり、誰も死んで欲しくはないのだ。“尊い犠牲”という名の下で、“死ぬ”という行為が美化されることを望んではいない。そして、俺はそんな母親の血を半分は受け継いでいる。
この映画のラストも、やはり誰かが犠牲になって全て解決させていた。だがこの犠牲は偶発的に見える。一人の犠牲も出すまいと皆で起爆装置を直そうとするとか、そういう努力をこの映画はしていたか?
『妖星ゴラス』で、誤情報によってゴラスの引力圏に入ってしまったロケット・隼号を少しは見習って欲しい。予定航路をはるかに越え燃料に余裕が無いと分かっていても、脱出しようとエンジンを全開にしてゴラスの引力から振り切ろうとしていた。だがエンジンの炎は徐々に弱くなっていき、ついに敵わず遭難……という悲しい結末を迎えるのだ。園田艇長(田崎潤)を始めとする乗組員達の、無念の表情を忘れることは出来ない。計らずも迎えることとなった“死”を、彼等はどのように受け止めていたのだろうか。それなのにこの映画ときたら……
死を讃えるな。生きて帰らせろ。映画ですらそれが出来ない奴等に、もはや愛など無い。
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