[コメント] ケス(1969/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
閉塞感漂う(というか溢れてる)学校という理不尽(あまりに理不尽が度を越して笑いさえ起こりうるほどに現実を乖離した「現実」のブラックさ!それはサッカーのシーケンスに集約される)な空間に閉じ込められ、ブルーカラーの家庭と、「抜け出せない貧困」という紐に繋がられ社会構造によって閉じ込められ、おまけに自らの非力故に閉じ込められ――構造的問題によって自己の変革の可能性が、あらゆる可能性が頭ごなしに否定され、飛翔を自ら獲得することが決して出来ない少年の「現実」。
その「現実」を突きつけられた僕は、幸せにも――そしてその「幸せ」という言葉はある種のアイロニーでもあるのだが――フカフカの劇場の椅子に座って、スクリーンを眺めているのだ。大学に通ったりなんぞして。学生料金の映画代払ってさ。名画座だから700円だけど。でも、スクリーンの奥には、炭鉱で働くか、技能工になるかしか可能性が“提示されない”子どもが居る。キャスパーの鳥「ケス」(=キャスパーの未来の可能性のメタファー)は、たった16ドルのために無残に羽を折られ――そして殺されたのだ。
しかし、コレが恵まれたボンクラの想像力の限界であるのか、或いはもしや僕がコレを「映画」と割り切って見てしまっていたせいか、そこにリアリティは感じても、重大な問題意識までは至らなかった。
ケン・ローチは、あざとい感傷を排して、ストイックに物語を描いている。そこには、映画的な感動が無く――映画的感動の不在こそが映画的感動を産む逆説の可能性もあろうが――ただリアルなリアリティが目の前に存在している。1969年当時の英国の、下層労働者階級のシビアな現実が。問題は、そのリアリティが僕の主観に於いてどれだけの現実味を得るかであって、それは言うまでも無く十分に獲得したとは言い難い。
一応、教育学という学問に少なからず携わる人間である以上は、こういった社会構造に弾き出された人々についても学んでいるのだが、映画という形で突きつけられた時、自分の中にある問題意識の――想像力の貧困さに、ただただ絶望してしまった。その意味で、この作品を俺が正統に評価する権利は全く無い。
キャスパー少年が「ケス」というハヤブサに託した夢は、無残に羽をもがれてゴミ箱に捨てられた。少年は、その非力ゆえに泣き寝入りするしかなかった。
ケン・ローチが69年に『ケス』という映画に託した物語は、無残に時代によって羽をもがれ、僕の脳裏の向こう側に捨てられてしまう……のだろうか?少しでも、想像力の翼を持ちたいと思う。
キャスパー少年が、貧困の連鎖からの脱却と閉塞感からの飛翔を「ケス」に託しながらも、結局その羽をもがれて貧困の連鎖の中で泣き寝入りするしか出来ない“構造的問題”がそこにあると同時に、その約40年後の今、この地で豊かな社会を生きる僕にも、想像力の貧困という“構造的問題”があるのだろう。それは……それはあまりに悲しいことであり、しかし、僕らの場合は泣き寝入りをしてはいけないのであろう。
◇
ただし一つだけ。
物語として、つまり映画として、若干の補足説明が必要なのではないか、と思う。
つまり、この物語がどこを舞台にしていて、そして学校に通う学生らの階層がどの程度の者が居るのか(英語が理解できれば、ワーキングクラスの英語とその他の違いを識別して理解できただろうが)とかさ。ある程度背景を加えて欲しかった、というのが個人的な思い。そこまで求めるのは野暮なことなのかもしれないが。
正直、物語があまりに感傷を排して淡々と進むが故に、こちら側が入り込む余地があまり無いことが――それがこの作品の魅力でもあるのだが――我々の「想像力」の翼を折ってしまっている部分は、否定できないのではないだろうか?
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