[コメント] 祭りの準備(1975/日)
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江藤潤が竹下景子にシナリオのネタ教える入れ子構造が前半にある。身障者の湯沢勉を色街に連れて行く原田芳雄、(後半、判りにくい描写なのだが湯沢は母の原知佐子に愛撫されていて、江藤はそれが自分ならいいのにと想像を逞しくしている)。警察に追われる兄石山雄大の妻杉本美樹を寝取ろうとする原田芳雄。この二案(事実)、合唱サークルなど通う竹下は汚らしいと評する。逞しく前進していく労働者階級をなぜ描かないのか。セックスに異常に興味を持ちすぎるのよ、と抱きつく江藤から逃げ去る。
しかるに竹下は都会から来た組織委員みたいな男斉藤真としけこんでしまう。『錆びたナイフ』がかかるのだから1958年(『南国土佐をあとにして』「星は何でも知っている」「からたち日記」も)。左翼活動は共産党なら六全共前の冒険路線だがそう単純でもないのだろう。『』で小山明子の教師が田舎町で開いていたティーチインみたいなものだろうか。斉藤はあそこの戸浦六宏みたいなものなんだろう。後半は竹下が斉藤真と寝たのよ御免なさいと自分から誘って吹替えのオッパイ。ボヤ騒ぎで会えなくなる。
それで、すると中盤、桂木梨江の産んだ赤ん坊の親はハナではなく爺さんの浜村純というのも江藤のシナリオだろうか、と思わせられたのだが、これは現実のことだった。都会からロポン中毒になって帰ってきた原田の妹桂木梨江は公衆便所状態になり、江藤も夜忍び込むが父のハナ肇に奪われる。ハナのアップは喜劇的だが笑う処でもなさそうだ。全体にコメディなんだろうが笑う類のものでもない。
旧弊な村を描いて今村と似た場所から撮られているのだろう。土佐のおんなのパブリックイメージはこんなだったのだろう。出産したら中毒が治るというのもいい加減な話だろう。自分の子供と認めて貰えなかった浜村純の首吊り自殺など悲喜劇というしかない。彼も半分痴呆が入っていたのだろう。他にも真山知子と絵沢萌子は序盤にハナを奪い合って半裸で取っ組み合いしているし、売春禁止法施行なのに芹明香は稼いでいるし。終盤、真山を亡くしたハナを馬淵は絵沢に引き取ってくれと頼みに行く。これはいい喜劇だった。
こういう、性的に放銃な田舎というのは、どこまで本当だったのだろう。それともネタなのだろうか。やくざ映画と同じで、そうだったと云う人はいても、史学の考証に耐えられるのかどうか不明だ。本作は脚本家の体験談だが、するとネタはどうにでも拡大できる故、さらに如何わしい処がある。
母親の馬淵晴子は江藤を溺愛し、正論ばかり云って叱り続ける。江藤は母親から逃げて逃げて、遂に東京へ旅立つ。本作で私が面白かったのはこの一連の断片だった。漁村の性的放銃のなか、彼女だけは真面目に生きている。彼女を裏切るのは慚愧の念があるだろう。江藤はいまは判らなくても将来は判るようになるだろう、と思わされる。論理で整理できずただ逃げるのは、母親への最大の「甘え」だろう。田舎を捨てるとはそんなものなんだろう。ただ、これは映画の転結ではなく個人的感慨に近い。ラストの江藤は格好つけ過ぎに見える。「手であげてください」というのもいらない冗談に見える。
漁民たちは炭俵のような荷を両天秤にして荷役しているが、折角のロケなのに何を運んでいるのか判らないのは不満。再見。撮影は記憶より立派なもので、緑が美しかった。
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