[コメント] パスト ライブス 再会(2023/米=韓国)
このオープニング、こゝで既に、良く出来た掌編小説のようなオシャレな趣きを感じさせる。本作は、24年前、12年前、現在、の3つの時代のプロットで構成されている。24年前のソウル。高台から撮った街並みの遠景。細い道を歩いてくるノラとヘソンは12歳。坂と階段の別れ道。この時代のソウルでのシーンが思いの外少ないのは予想外だった。公園でのデートシーン(母親の監視付き)で出て来るロボットみたいな像や、見つめ合う巨大な顔のオブジェが面白い。
それから12年。ノラ−グレタ・リーはNYで芝居を書いている。クロスカッティングでヘソン−ユ・テオの兵役シーンが挿入されて、この軍隊経験が重要なのだろうと思わせるが、わずか2、3カットで流されてしまうのも意外だった。こゝはもう少しあった方が、終盤に効いたと思う。全体に、ちょっと端折り過ぎの構成とも思うが、SNSを通して再会した2人のリモートのコミュニケーションは、肌理細かく豊かに見せる。綺麗にしてカメラに映るノラ。ソウルを見渡せるケーブルカー。『エターナル・サンシャイン』への言及は、ある意味、本作を象徴するのだろうと予測する。ほどなく、この関係は、ノラが余りにのめり込みそうになったということだろう(本業が疎かになり始めていたのだろう)、自粛したように終息する。
この12年前の時間軸では、ノラがアーティスト招聘プログラムで自然豊かなシェアハウスを訪れた場面も丁寧に見せる。到着したシーンでは、キャリーケースを玄関に置く動作で、アクション繋ぎを見せるのだ。他にもノラの所作で、アクション繋ぎを何度か繰り返す。こういう演出の特権性でも、やっぱり彼女をこそ描きたいのだと思わせる。また、パートナーになるアーサー−ジョン・マガロの登場が、ノラの部屋の窓からのショット、というのも、丁寧な演出と思う。タイトルの「パストライブス」という科白が提示されるのもこのシーケンスだ。
そして現在。24年ぶりに対面した2人の場面で、すぐに文化慣習の違いを意識させる演出がある。これは流石にドギマギするだろうと思う。ブルックリン橋が見える公園のシーンでの長回しの演出も目を引く。だが、もっと良いと思ったのが、この日の夜の、閨房でのノラとアーサーとの会話シーンだ(ノラの寝言は韓国語、という話が出てくるシーン)。アーサー役のマガロがしっかり描かれている、というのが本作の全体を支える要点だと思う。冒頭のシーンに戻って、カウンターに座ったマガロが映らなくなる部分でも、私は、彼が気になって仕方がなくなった。そう思わせるのが周到だし、2人になった時、ヘソンがちゃんと謝るのも周到だ。
あるいは、終盤の歩く2人の横移動や、ウーバーを待つ2人が佇むショットなんかを見ると、この作り手もフルショットの美しさを大事にする人だと思い嬉しくなるけれど、こゝで一瞬挿入される階段の別れ道のカットは、回想のフラッシュバックではなく(なぜなら昼ではなく夜のカットだから)、一瞬の幻影のようなイメージだろう。どちらかの(いや、2人同時に去来したかも知れない)イメージ。このイメージショットは、アパートの玄関前の階段に呼応共振する。本作は「枝にとまる小鳥と枝」の記憶なんかではなく、あくまでも3人が生きてきた記憶について描かれている、「記憶の映画」だと感じる。
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