[コメント] ホドロフスキーの虹泥棒(1990/英)
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たぶん脚本家は、いがみ合いながらもオトゥールとシャリフのあいだに醸成されてゆく友情の美しさを描きたかったのであろうし、それは観客も理解できたことであろう。そして、ふたりは変わり者の貴公子とコソ泥の固い絆を演じきったのだ。
しかし、ホドロフスキーは描かない、オトゥールとシャリフが罵り合いながら結びついてゆく過程を。監督が那辺に力を入れて描写したかといえば、クリストファー・リーの痛快な意地悪富豪っぷりであり、倭人と巨人のコントであり、辛うじてシャリフの無責任きわまる生き方がもたらす周囲の迷惑ぶりだ。だからシャリフがオトゥールを見限って豪雨のなか異国へ旅立とうとしながらも、見捨てることができず主人を助けにゆく、その心のプロセスが理解不能であるのだ。ふたりの関係は悪質である以前に希薄である以上、どんなに思い出したように絆を強調しようと、そんな唐突なつながりにはむしろ戸惑ってしまうのである。
たぶん、どんな凡庸な演出家でもくだんの台本からは、脚本家の真意を読み取ってそれなりに演出したろう。だが、仮にも相手はホドロフスキーだ。ほっこり話など絶対に紡がない稀代のカルト監督だ。かくして、物語は暴走しべつの意味で面白い怪作になった。クライマックスの洪水に呑まれる下水道で、シャリフらを襲う危機また危機の描写では、乾いた笑いを呼ぶ意識的にチープなエフェクトが待っている。ここが見どころでしょう。そして無理やりな大嵐の描写と港の美しい俯瞰図。ストーリーは追おうとしないほうが楽しめるのかもしれない。
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