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[コメント] 砂の上の植物群(1964/日)

この点になった理由の説明が、この映画の場合、特に必要に思われる。良い点悪い点の凹凸が極端だからだ。以下コメント欄にて。
ジェリー

不思議な映画である。制作姿勢の真っ当さは感じられるが、制作技巧の拙劣さに驚く。

まず、タイトルの示す、「生まれる場を間違えた生命」という自己イメージ(違和感)を持つ主人公と女子学生。その対極にある自足的なホステス。同極は離れるが、対極はひかれあう原理が描かれており、論理一貫性は保たれた。

また、女が描かれていながら、「男目線に引っかかる範囲の女」しか描かれない。ある意味、その視線の一方性や純化が眼目なので、そこに、男女平等的視点や規範意識が入り込んでしまうと表現が濁る。そうした濁りも感じられず、この点においても原作に対する態度の倫理性が強く感じられた。

ただし、性描写含むテーマ表現の経時劣化がひどい。「生まれる場を間違えた生命」も、「男目線に引っかかる範囲の女」も、ある種の際物性とともに映画表現となりえた時代をとうに過ぎた。残念ではあるが、男目線ばかりが幅を利かす社会の弊害性の認識が浸透してきた一方、AVや、ネット交際などの今なお男目線が生き延びている世界がよりふてぶてしく日常化している。その結果、この作品の居所などなくなってしまっているように感じられる。この作品の持つ、純潔な論理一貫性も、態度の倫理性も、ガラスのように繊細だったのである。

時代の変化だけが表現劣化をきたしたのではない。その当時の目線で見てもなお、表現面(俳優の演技演出、照明、キャメラの寄り/引き、カット)の神経のずぶとさばかりが鼻につく。例えば、「覗く男たち」を表現するのに、3人の男の目にだけ照明が当てられているのだが、その発想の貧相さに寒気がする。寄りだけで摂られた性交シーンも工夫に欠ける。眼がやたらぎらつく仲谷昇ら俳優の魅力も、既に賞味期限を過ぎてしまっていて、地に足のついた信欣三だけが今も残光を放っているという具合だった。黛敏郎の音楽(これが実にかぐわしい)との乖離が、むしろ痛々しい。

(評価:★2)

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