[コメント] FOUJITA(2015/日=仏)
「お調子者」と呼ばれ水を得た魚のようにパリで生を開花させた男は、帰国して「先生」と呼ばれながら国家の威圧のもと死をまえに他者を意識する。「白い画」時代の有頂天と「暗い画」時代の沈鬱。藤田が体現した自我に近代日本がたどった矛盾の道がだぶる。
日本が近代国家の体を成し始めた明治19年(1886年)に東京で生を受けた日本人である藤田嗣治は、いくつかの大戦の洗礼をうけた日本が、繁栄の頂点に達する昭和45年を目前に昭和43年(1968年)、フランス人として欧州で永眠する。
本作の前段と後段はさまざまな「矛盾」によって分断される。幼児のように旺盛に西欧文化を享受した画家は、打たれる出る杭のごとく日本文化への強制純化を強いられる。その背景にあるのは強国の庇護のもと開花する自由と、肥大化した国家主義による体制の論理という同調圧力。作品のトーンを二分する、前半の明るい夜と後半の暗い昼。画家が描くパリ時代の乳白色の裸婦や猫の画と、限りなく黒に近い空間で兵士の群れが叫び悶え息絶える戦争画の反比例的な断絶。
それは、藤田という「人生」に仮託され、近代日本が体験した矛盾の象徴だ。そんな矛盾を引きずる日本に嫌気がさし、再びパリへ渡った藤田が、洗礼を受けレオナードを名乗る晩年は描かれない。しかし、エンディングロールに映し出される、藤田が80歳のときに手がけたというランス教会のフレスコ画のなかの、首をかしげた藤田の自画像の悲しそうな目は、日本人の矛盾を罪として背負い、無言で我々へ何かを問いかけているようにみえた。
今年(2015年)は、戦後70年の節目として数々の映画が公開された。そんななか本作には、一歩引いて近代化の途上で日本人がたどった経緯と、体験した矛盾の線上にマクロ的に「戦争」を据えた点で普遍的な説得力を感じた。
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