[コメント] 流れる(1956/日)
初代あややの原作を、梨花の鋭い洞察力や潔い思考、それによって会得した梨花なればこその生き方を愛しく思えば思うほど、これは別モノなんだなぁと寂しくなる。
一人称で語られる原作には、流れてゆく時代やそれに抗えきることができない人々の物語という横軸だけではなく、その流れにあえて逆らわないことで逆に自分の筋を通してゆく、賢く強い(だが平凡な)女の物語というピシッとした粋な縦軸もあったはずだ。
この映画ではかなしいかな、田中絹代は最後まで登場人物の一人でしかなく、それどころか無口なただの傍観者でしかない。
主人公がなぜ「梨花」という名前なのか、そして彼女はその(当時にしては珍しい)名前を持つことで、どのような価値観を抱くようになったのか。
群像劇としては確かに素晴らしいかもしれないが、そこの部分がまったく描ききれていないのであれば、これは幸田文の「流れる」とは言い難い。とさえ思った。
なぜ「流れる」というタイトルなのか、ということに対する回答が、このままではどうも中途半端な気がするからだ。「流れる」のは梨花の生そのもので、柔は剛を制するを体現するかのような梨花の言動があればこその、素敵な作品であったはずなのに、と。
ただ、それぞれのキャスティングはまさに見事の一言に尽きると思う。あまりにイメージ通りで、怖いぐらいだ。(ゆえにこそ、過剰に期待してしまったのであるが。)
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