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[コメント] ゼロの未来(2013/英=ルーマニア=仏=米)

キッチュな極彩色の監視・管理社会にワケ分からん数学的証明の行為がゲーム感覚で放り込まれ、そこにはフランツ・カフカ的哲学的寓話性が見てとれるが、レトロフューチャーな世界観と共に、「今さらそれやって何になる?」という寂寞感を抱かせる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クリストフ・ヴァルツの一人称がいちいち「我々」なのにイラついていたので、少年ボブ(ルーカス・ヘッジズ)の「イラつくからやめろ」という台詞がクールに響く。彼が、この世界の神的存在であるらしい「マネージメント」(マット・デイモン)の息子というのは、要は神の息子たるイエス・キリストの暗喩なのだろう。ヴァルツが廃墟となった教会である自宅での勤務にこだわり、そこで、人生の意味を教えてくれる電話を待ちたいのだと要求するのもご同様。打ち捨てられた教会で預言を待ち続ける男・・・・・・。なんて分かりやすい寓話。こうなると、少年の名がボブなのも、綴りが上から読んでも下から読んでも「BOB」ってことで、なんだか聖書の「私はアルファでありオメガである」を連想させる。

ヴァルツは、他人とのつながりが持てないことを解消するため、セラピストに勧められて「我々」と言うようになったというが、これもつまり、他人とつながりが持てなくなった男ヴァルツはまさに我々の姿でもあるということなんだろう。彼が、敢えて妄想を治療されず、電話が人生の意味を教えてくれるという希望に縋って生きるよう強いられていたのは、宗教的、或いはイデオロギー的な欺瞞の暗喩だろうし、そんな偽りの希望に縋りながら、延々と数式と格闘させられていたのは、ボブ曰く、存在の無意味さを証明するためでしかない。上方からヴァルツを見張る監視カメラは、神の目の暗喩だろう。

最後にヴァルツが行き着く宇宙の深淵、虚無の闇は、ベインズリー(メラニー・ティエリー)と過ごした楽園である浜辺へと至る。超越的なところからもたらされる人生の意味などはなく、素敵な女の子と一緒に過ごす一時の至福といったところにこそ生きる実感があるのであり、それは虚無の深淵のすぐ傍にあるからこそ、なおさらその幸福が身に沁みる、というわけだ。そして、数学的証明(科学)も、電話からのお告げ(宗教・イデオロギー)も共に虚しいものだとしても、イメージ・空想の中では、太陽をわが手に掴むという不可能事さえ叶えることができる。

なんか、どこかでかつて観たエンディングのような。確かテリー・ギリアムとかいう監督の映画で。だが、この『ゼロの未来』は、前衛ぶっている割には手垢にまみれたテーマ性があまりに説教じみていて、ひとを素直に感動させるような映画ではない。キッチュでポップなビジュアルや、ヴァルツが覗く宇宙の深淵、ボブとピザ、といった、部分部分では目を惹く面白さはあるだけに、惜しいことではあるが。

(評価:★2)

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