[コメント] 若き日のリンカン(1939/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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兄弟のどちらかを選ぶなどという残酷な選択は出来ないと嘆く母の苦悩を理解するリンカーンは、兄弟のうち、殺人を犯したほうを罰して他方を救うほうがまだしも温情的に思える状況に於いて、敢えて事の真相にこだわり、結果、兄弟両方を救うことになる。この結末は、リンカーンが弁護士事務所で見せる解決法と同質と言っていいだろう。彼は、争いあう二人の男に対し、片方の求める賠償額と、その当人が片方の男から借りている金がほぼ同額であり、その差額が弁護士料と同じだという理屈によって、激しく対立していた二人の男を静めることに成功するのだ。
こうした、二者択一のジレンマを巧みに回避するリンカーンの在りかたは、祭りでの競技に参加する彼の姿によっても予告されていた。パイの食べ比べコンテストでは、桃のパイと林檎のパイのどちらがより美味しいか決めかねて、いつまでも食べ続けるリンカーン。丸太割り競争では、左右の競技者より先に、中央のリンカーンが丸太を割る。ここでも左右の二人という「2」を制する者であるリンカーン。加えて、大きな丸太は後のシーンで、留置所の扉を壊そうとする為に暴徒らが抱えてくる物であり、リンカーンがそれを下ろさせることで騒乱は終息する。
だが、綱引き競技では、後ろのほうで独り綱を引いていたリンカーンは、情勢が不利になるや、綱を馬車に引っかけて進ませ、かなり反則的に勝ちを奪う。このシーンは、ユーモラスにリンカーンの知略の一端を紹介したという程度のものなのかもしれないが、裁判シーンに於いて、リンカーンの相手側に当たる検事が、マヌケなチビとして扱われていることや、リンカーンがアメリカンなジョークで傍聴人どころか判事まで味方にしてしまうという描きようは、これまた主人公たるリンカーンに贔屓の引き倒しという印象だ。「法」を主題にしているにしては、過剰に情緒的だと言わざるをえない。またこのことで、リンカーンがその困難な状況をいかに切り抜けるかというサスペンスも減じてしまう。
真犯人は別にいて、兄弟はどちらも殺人には手を染めていないという、どんでん返しによる解決は、或る事実に対していかに知的かつ情的にも納得のいく結論をもたらすか、という手腕とはまた別の次元になってしまっている。兄弟の二人とも、自分は殺していないからこそ他方の兄弟が殺したと確信してしまい、結果、身代わりになろうと「自分が殺しました」と証言し、そのせいで却って二人とも危機に陥っていた、という真相は、兄弟の母の証言拒否と共に、何より家族愛が危機を招いていたという構図。だが、「その夜は月が出ていたので殺人現場が見られた」という偽証を暴くのは、リンカーンがメモ用紙代わりに被告の家で借りた生活暦なのであり、つまりここでリンカーンが果たしているのは、巧みな落としどころを考案する弁護士としての手腕の発揮というより、家族愛が社会の法と齟齬なく和解する道筋を見出す者としての立場なのだ。政治家リンカーンの「若き日」を描くという性格上、一応は分からぬ話ではない。
だが、この爆弾級の真相が露わにされた以上、リンカーンが独自の人物鑑定によって陪審員を選んでいたシーンは、結果的には彼の人間観を描くシーン以上のものではなくなり、陪審員はただ座っているだけの人形同然になってしまった。種々雑多な人々を束ねる未来の大政治家リンカーンとしての説得力は雲散霧消し、名探偵リンカーンに変貌。何だか方向性が間違っていないか?
二人の息子が共に捕われ、女所帯となった被告人一家とリンカーンは、密接な関係を結ぶ。私の母が生きていれば貴女くらいの歳だ、母も貴女を好きになっただろう、私には分かる、君くらいの年齢の姉もいた、君と同じような女の子もいた、皆死んでしまった、云々の身の上話をして一家に溶け込むリンカーン。素朴かつ典型的なアメリカ人一家のよき息子にして家長としてのリンカーン像を描く為のシーン作りだとは思うのだが(初登場となる演説シーンでは「私はただのエイブラハム・リンカーンです」と自己紹介していた)、失われた自らの家族と被告人一家とを、あまりにもぴたりと貼り合わせてしまうリンカーン、一家を訪ねたシーンでは、当然のような態度で娘に夕食の用意をしてくれと言うリンカーンは、若干ストーカーじみていて気色悪い。勿論、一家はリンカーンを全面的に受け入れるのだが、先述した裁判シーンも併せて、最初から最後までリンカーンを全肯定する演出は、偉大な国父としてのリンカーンという歴史上の認識から逆算した、恣意的でアンフェアな描きように見えて仕方がない。「若き日」を描きながらリンカーンに人格的な成長が見られず、本格的な葛藤も描かれないので、生じるべきドラマ的緩急が流産してしまう。
墓参りシーンでの、リンカーンの背後を流れる川の美しさだとか、彼が椅子に座って足を投げ出す格好だとか、口琴を演奏するシーンの面白みだとかを讃えて、フォードの世界観の完璧さに満足するのが所謂「映画通」としての作法なのだろうとは思うが、フォードのやっていることは僕には、全てを映画的制度に収め、自閉的なぬくぬくとした環境の中で完成度にこだわっているだけの、児戯に等しい行為に思えてならない。
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