[コメント] 四川のうた(2008/中国=日)
描かれているのは50余年間、そこに在り続けた巨大な建物と、そこで繰り広げられた労働と生活だ。時は社会の潮流に呼応し、集団から個人へという変転を人々に促し、生活者は過去としての「場」と決別しつつ、過ぎ去った「人生」を慈しみ述懐する。まさに歴史である。
映画の背景は、時の流れに抗うかのように、そこに存在し続けた「420工場」という場だ。老体をさらし、後は死を待つだけの建物と空間、さらに、その場で働く労働者たちを淡々と捕らえるカメラが実に力強く、かつ柔和で美しい。これは、その場に存在し続け、いま死を迎えんとする勇者を慈しむ視線であり、まさにジャ・ジャンクーの目の前にある現実だ。
一方、映画を彩るこまは、強大な時の流れに身をまかせ、あるいは抗いきれず、好と悪の狭間を変転した人びとの一人語りだ。彼女や彼らの、何気ない、しかし心の底にこびり付いたような思い出話が、長大な時代のうねりを映し出す。名もなき労働者たちの思いは、役者たちによって演じられドキュメンタリーのインタビューのように語られる。すなわち、これは虚構だ。しかも、寸分の隙もなく映画的に演出された虚構であるからこそ、心に響く深さを醸すことに成功しているのだ。
現実と虚構が織り成す錯綜が、中国の政治体制の変転から産業構造の変化という大きなうねりと、その時々の生活者たちが被った波乱や感慨、さらには次なる社会へむけての新たな労働観―チャオ・タオ演じる娘の未来と過去を見つめた決意は涙を誘う―までをも捕らえた、骨太な中国50年史として結実している。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。