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[コメント] ハーフェズ ペルシャの詩〈うた〉(2007/イラン=日)

愛に走り、狭い社会から逸脱する青年が、他ならぬコーランの暗誦者(ハーフェズ)である事の寓話性。母方のチベットの血を継ぐ女性を演じた麻生久美子が、場違いな日本人にしか見えないのは痛いが、彼女も社会の外にある存在として要請された筈。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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淡々と、素早く場面が変わる編集に加え、場面の土着的な文脈が瞬時に理解し辛い箇所もあるが、その事で妙な不条理感さえ漂い、常に新鮮さを感じさせられもする。

この映画での麻生の在りようは、知らない土地に連れてこられて戸惑いながらも、指示された台詞を取り敢えず言ってみた、といった、躊躇や所在なさが感じられる。監督にとってはまさにその、土地の人々の常識や生活習慣に染まっていない佇まいこそが彼女を起用した狙いだったのかも知れない。だが僕らから見れば、場慣れしない日本人女優が恐る恐る演じている印象が拭えず、映画という虚構に独り、組み込まれ損なったような違和感がある。観ていて何か気恥しい。

麻生演じるナバートとの別離を余儀なくされ、行き場を失ったハーフェズの愛は、鏡の請願に協力してもらう見返りに女性たちの願いを叶える、という行為を通して、広く様々な人々へと浸透していく事になる。この鏡の請願自体、本来は愛を得る為のものなのに、ハーフェズは逆に、愛を忘れる為に行なう。その結果として彼の愛が様々な実りをもたらすという、二重の逆説。或る協力者から「パンを五百枚」と求められたハーフェズは、苦労して手に入れたパンを盗まれてしまうが、女性は「パンはそれを求める人の許へ行ったのよ」と、事態を受け入れる。五百枚のパンという形で何処かへ届けられた、見知らぬ人達への愛。

また、雨乞いを成功させた時には、村長から「お前が超能力者だというのなら、私の心を覗いてみろ」と求められ、村長の心に秘められていた恋心を見抜く。少女に眼鏡を与えた際には、勝手に町に連れ出した事を咎められて鞭打たれるが、彼の許には子供たちが殺到する。眼鏡よりも、それを口実に町に出たいのだ。ハーフェズは、自身を失墜させた愛を忘れる為に旅しているのに、却って他の人々の心に潜んでいた解放への願いを呼び起こす事になるのだ。

こうした逆説の端的な表れは、ナバートの夫が、ハーフェズを追う中で、彼自身がハーフェズに間違われ、結果的には彼の方が愛を忘れる事を選択する事になる所だろう。彼はまた、旅の途中で出会った女性の代わりに教壇に立ったり、その恋人との間の言づけを引き受けたりした事で、彼女が結婚してしまい、結果として、ハーフェズの鏡の請願に彼女が協力できないようにしてしまう。彼とハーフェズとは、合わせ鏡の関係という事なのだろうか。

そうした様々なドラマを映し出す、磨かれた鏡の輝きが印象的で、その表面が処女の手で拭かれる様子は、どこか官能的でもある。他にも、並んで太鼓を叩き鳴らす人々が、強い風に衣をバタバタとはためかせている光景や、トラックの荷台に乗せられた、水の入った夥しい数のビニール袋、結婚式の場を走り回る多数のバイク、といった、画的なインパクトが、淡々とした乾いた物語に、乾いた華を添えている。

(評価:★3)

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