[コメント] 百万円と苦虫女(2008/日)
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蒼井優のようなタイプの女子はいる。極端に無口で、可愛いのに陰気に見え、挨拶しても返してくれず、極端な照れ屋なのだろうがこちらが嫌われているように感じて面白くない。そういう女子の生態を描いた作品として見ると、興味深かった。前科を抱えて、という原罪は彼女らのデフォルメとして勝手に捉えた。
本作、余り理屈が通らないのも、その反映に見える。例えば収束、イジメに立ち向かおうと決心する弟(この子は偉い。本筋よりいい。給食の件は腸が煮えくり返る)の手紙を読んで蒼井は町を去り、ドロドロ恋愛を断ち切る決心をする訳だが、いまいる場所で一所懸命にやろうという弟の姿勢に共感したのなら、決心は真逆でなくてはならないだろう。しかし本作の蒼井の造形においては、立ち去る選択が必然と見える。理屈ではない。鈴子という訳の判らない他者がいる、という処で説得力すら感じる。
舞台は四分割されるが、蒼井から見て人物が類型化されていると見れば判るところがある。海の家のナンパ男と花屋の上司は、最初にルームシェアさせられる男と同じイケメンとひと括りすれば、その拒否振りが判るし、森山未來に引かれるのも上司に批判的だからと見える(喋っている3人が楽しいだけ、というコンパ論は素晴らしい)。クラスメート3人は弟を虐める3人だし、ルームシェアの直前にいなくなる平岩紙(本作で最も酷い人物だろう)は森山の後輩だし、冒頭の「ヤッタの?」と尋ねる刑事は村の年寄り連中として反復されている。だから桃娘、やります、という展開にはならない。彼等は蒼井の嫌いなタイプなのだ。私たちだって、ある時は損もしながら、人を見る眼というのをこうして養ってきたのだろう。その点リアルがある。ピエール瀧が善人なのは、この類型化から外れているからに見える。
いいシーンは幾つもある。弟と手をつないで団地の芝生を行く長回し(最後に手をつなぐという)は美しく、全編を支えているし、森山との告白の件は酸っぱくてとてもいい。屋上のベンチが100を描いているギャグもいい。作者がこの小娘の変な理屈っぽさを、遠目から客観的に眺めているのが判る。この百万円の拘りにしてから不思議で(どの旅も満額クリアしていないだろう)ある種神経症的だが、これも含めて、作者は彼女の放浪癖をどこかで羨ましがり、心情を手探りしている。この距離感はいいものだと思った。
ラストは蒼井の願望だと見ていいと思った。後輩に諭されて森山が蒼井を追うのは、蒼井の考え過ぎなフィクションと。そうでないと、ふたりが眼を合わせているのに「そんな訳ないか」とはならない、現実なら森山が語りかけてくるだろう。最後まで蒼井は森山の心変わりを間尺に合わないと拘っていたのだ。が、世間は間尺に合わないことだらけ、という一種の悟りを最後に得た、ということで、この苦虫女の物語は完結したように見えた。
11PMのシャバダバや「流れ流れて」なんて冠二郎の歌を蒼井の年齢の娘が知るはずもないが、放浪映画の伝統が吐かせた科白と思えば味がある。ただ、お金を「銀行で下ろす」という科白はおかしい。あんな田舎町に銀行はないよ、あの唯一の通帳は郵便局であるはず。
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