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[コメント] 14歳(2006/日)

考えてみれば、僕がシネスケに入ったのが6年前で、その時まさに僕は14歳だった。2007年12月16日シアターキノ
ねこすけ

「14歳」という年齢は、それはそれとして重要なのだと思うけど、敢えてその幅を広げて言えば、僕はこの手の作品で言えば、岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』とか、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』は今でも傑作だと思っている。だけど、この『14歳』がそれに並ぶぐらいの傑作かというと僕は躊躇してしまう。 ただ少なくとも、これらの作品群を語る上では外せない作品の一つであると思う。

それで結局見終わって思ったのが、結局僕らは「14歳」を覚えているのか、ということだ。というよりも「14歳」って何なんだろう、って。それ自体がこの作品の主たるテーマなのかもしれないが、ふとそう思った。この映画のキャッチコピーにはこうある。

「窒息しそうな毎日を変える方法がある」 「もう思い出せないのかな…」

「普遍妥当性のある『14歳像』」なんて、そんなのは嘘っぱちだと思う。少なくとも「普遍的」として語られる「14歳像」は、それが「普遍的」と冠をつけられる限りに於いて、普遍的でありうることは出来ないと思う。なぜなら、<僕>と<君>は、絶対に異なる「14歳」をお互い過ごしているし、分かり易く分ければ、例えば公立中学と私立中学の「14歳」は、確実に異なるものだと思う。あるいは、少なくとも、今、この現在で、<僕>や<君>が想起できる「14歳」は、確実に異なっていて、例えばそれは「楽しい」「面白かった」であれば、一方では「地獄」「苦しかった」とか、そういう風にしかならない。

つまり、リアルタイムで14歳であれば、それは程度の差はあっても同じ「14歳」という像になると思うのだけど、ひとたびそれが映画なり何なりの形で描かれた瞬間(つまり、何らかの「主観」というカメラのレンズを介する瞬間)、それは普遍的妥当性を持ったものであることを放棄するのと同義なのだと思う。要するに、「(仮に想像の中であっても)描く」という主観的な行為の先には、「物語」こそ存在しても「普遍的な14歳」は存在しないのだと思う。

そしてその意味で、僕は『エレファント』のペシミスティックな虚無主義は、「『描く』という行為を放棄することを描く」ことによって普遍的な物語を構築することに成功していると思う。勿論、限界はあったけど、少なくとも「事実」を淡々と描写する、そのある意味では悲観的な美しさは、僕らの窒息しそうな毎日を表現していた気がしてならない。――あの「窒息」は、思い出す限りでは、あのようにキラキラと残酷に輝いているのだ。『リリイシュシュのすべて』の美しさのように。

閑話休題

だからその意味では、僕らは皆全て「14歳」を覚えていないと思う。 作品の表現を借りれば、時間、即ちこれは物理的な「距離」であって、これは過ぎてしまえばもう戻ることはできない。そこで語られる「14歳」は、結局客観的で機械的な「数値」でしかなくて、それはつまり、生の14歳ではありえない。ただ人それぞれその「数値」に変動が見られたりするだろうけども。

所詮、僕らが思い出す「14歳」は、リアルタイムの14歳ではない。

この『14歳』という映画は、結局それを描いているのかもしれない。

ならば「窒息しそうな毎日を変える方法」は、何なのだろう。「もう思い出せないのかな・・・」という問いに、どう答えればいいのか。

「プロ教師の会」よろしく「教育活動」に徹して生徒と目をあわせられない教師も(例えば、まだ見てないけど『ザ・中学教師』)、「生徒の身になって考えている」という姿勢を全面に押し出して「向き合って話しましょう」なんていう教師も(教育学部に居ると、こんな奴はウジャウジャ居る)、劇中の表現を用いれば、ゼロ(向き合わない)でも100(徹底して向き合う)でも、14歳から見れば、等しくクソだ。そんな風に、かすかな記憶を辿って僕は思う。

当時何者でもなかった僕は――今でも何者でもないけど――、「窒息しそうな毎日を変える方法」は一つだけだと思った。ただ、そこから出て行くことだ。

それでも、今もまだ、窒息しそうだ。それなのに、映画を観終わって自問自答しても、思い出せない。14歳の時の自分が思い出せない。

ただ、胸にズシリと映画だけが残る。

今思うと――勿論、これも記憶の中で美化された偽りの記憶かもしれないけど――僕が今教育学なんていう胡散臭い学問を大学でやってるのは、14歳の時の想いから出てきているのかもしれない。だから、口先だけで奇麗事の教育学を語る奴らを目の当たりにして、学部で吐き気だけを感じる自分が居るのかもしれない。

なのに思い出せない。それでも、欺瞞だとしても、手探りで向き合っていくしかないのか。自分の「14歳」と。

だけど、僕は思うんだけど、本当に「教師」としてやってくなら、或いは子どもに対して「大人」として対峙するのなら、無邪気に生徒から目を反らして演じ続けてる奴が「正解」な気がしてならない。その上で「子どもと向き合って」なんて言ってる奴――つまり「14歳」を忘れてるし、思い出そうともしないし、思い出す必要性さえ自分で感じることもせず、それでも「子どもと向き合ってる」と堂々と言える奴。

そんな奴が教師に向いてるのかもしれないなと、ふと思った。皮肉だけど、事実かもしれない。小学校からこの年齢までずっと「生徒」ないし「学生」で生きてきた僕は、そんな風に思えてならない。

窒息しそうな毎日を変える方法――僕は今もそれを求めて、教育学なんて胡散臭い学問をしている。

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