[コメント] 舞妓Haaaan!!!(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
散漫というか、分断しているというか、それぞれのシーンの演出に一貫性がなくて疲れてしまった。映画監督の仕事というのは、たぶん、脚本に書いてあるものを画面化するだけじゃなくて、「どんな映画にするのか」をちゃんと決めるべき人なんだと思うんです。水田という人の映画なら、一分一秒すべての瞬間が水田の映画じゃなきゃならないはず。なんだけど、この監督が映画をどんなものにしたいのかがよく解らなかった。ただ文字で書かれた脚本に合致する画面を作って並べただけのような、そんな印象を受けたのだ。
例えば、冒頭のネット掲示板でやり合うシーン、確かにそこだけ観れば「それっぽく」はあるんだけど、実際に阿部と堤がバッタリ出会ってしまうところではまったく別の演出をしてしまう。だからこのケンカがネット掲示板の延長であるという意味づけが伝わってこない。
阿部の部屋で阿部と柴崎が別れるシーンも、脚本のセリフを言わせるだけで微塵の逡巡も見せないから、後に阿部が舞妓の前で「彼女のことばかり考えちゃう」と言ったところで唐突に見えてしまって説得力がない。
駒子の過去のエピソードに関しても、「悲しいシーンだから」と、とことん悲しく撮ってしまい、映画がトーンダウンする。脚本家はわざわざ話が重くなりすぎないように「おでこにバッテン」なんて記号を盛り込んでいるのに、その意図を解さないで条件反射的に「キレイな悲劇」を演出する。
仮に連ドラのうちの数回を演出するのであれば、視聴者はその設定なり人物なりを理解したうえで見ているから脚本を画面化するだけで成立するのかもしれないけれど、「0→1」の2時間しかない映画でここまでセリフとト書きに引っ張られた演出をされてしまうと、観客は作品の中に世界観を見出すことができないんじゃないのかと思うのだ。
なぜこんなことを書いてるかというと、水田監督が公式サイトのコラムに「娯楽映画には監督の作家性はいらない」みたいなこと書いてて何か嫌だなと思ったからなんだけど、娯楽映画だからこそのテンションを維持するためには、それこそ監督の「娯楽とは何ぞや」って作家性がモロに問われるんじゃないのかな。せっかく大資本の下でクドカンが脚本書いて阿部サダヲが暴れまわるという、私のようなニワカ小劇場ファンにとっても涙モノの企画だっただけに、残念でなりませぬ。つかクドカンはあんまし監督に恵まれないね。
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