[コメント] ホワイトハンター ブラックハート(1990/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「映画を見る」という行為には多かれ少なかれ「現実には不可能な事柄(冒険や恋愛)を体験する」といった代償行為的な側面があるということを指摘するのは容易いが、それでは「映画を撮る」という行為はいったい何なのだろうか。イーストウッドはここできわめてシンプルな仮説を提示している。すなわち「映画を撮る」とは「銃を撃つ」ことであると。
この作品は「象を撃ちたいがために映画を撮ることを拒否しつづけるイーストウッドが、遂に象を撃てなかったためにようやく映画撮影を開始する」とでも要約できるが、これは、この映画においては「撮る」と「撃つ」が代替可能であることを示している。しかし「撮る」と「撃つ」は本当にまったくの等価なのか。イーストウッドは「象を撃つことは罪だ」と云っているが、それでは「撮る」こともまた罪となるのだろうか。あるいは「撃つ」ことが罪であるがゆえに代償行為としての「撮る」が必要とされるということなのだろうか。
ハッキリ云って私にはまだそのあたりの論理に整理をつけることができていないのだが、しかし「撮る」と「撃つ」を「shoot」という同一の語として重ね合わせるというここでのイーストウッドの発想を、単に言語的な(地口的な、と云ってもよい)ものと見ることは適当ではない。映画において銃は特権的な小道具であり、撃つことは特権的な行為なのだ。それはほんの少しでも映画史を振り返ってみれば明らかなことだろう。イーストウッドその人にしても今までいったい何発の銃を撃ってきたか計り知れず、俳優としても監督としても銃を撃つことを通じてキャリアを築いてきたと云っても過言ではない。イーストウッドは「撃つこと」の思想家なのだ。その思想家としての姿は彼のすべての作品に刻まれているが、とりわけ深く刻まれているのがこの『ホワイトハンター ブラックハート』だと云ってよい。そして「撮ること」と「撃つこと」をめぐる彼の思索は、『許されざる者』という名の作品において最も分かりやすい形で私たちに提示されることになるだろう。
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