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[コメント] フォーリング・ダウン(1993/米=仏)

われわれ自身の中のD-フェンス。平均的市民としてのD-フェンス。彼を追う刑事とは、同じコインの表と裏のよう。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ほぼ最初から抑制心がフォーリング・ダウン状態のD-フェンス(マイケル・ダグラス)が、互いの怒りをぶつけ合った末にコンビニ店員が手にしたバットを奪う所から始まって、徐々に破壊力の高い武器を手にしていく過程、それと並行して描かれる、ストレスフルな状況下にあっても静かにフォーリング・ダウンを回避しているかに見えたプレンダガスト刑事(ロバート・デュバル)の、徐々に自らのブレーキを外していく過程。この、同じコインの両面のような二人を通して、恐れと怒りと暴力の三つの関係を示す図式を描いた作品。

刑事は、娘を幼くして亡くし、極度の恐がりである妻に配慮して、危険の無い内勤に移る。D-フェンスは、自分を恐れる妻の元にいる娘に会う事が出来ない。刑事は皆からナメられ、D-フェンスは皆から忌避される。あちこちで暴力沙汰を起こすD-フェンスを追う過程を通して、刑事は、それまで遠慮していた妻や同僚や上司に対して、一喝を食らわせ、一撃を加え、一言罵声を浴びせる。妻との電話で一喝した際、ついでのように「チキンの皮は剥くな」と注文をつける台詞からは、やはり以前から腹の底では不満が堪っていた事が窺い知れる。そして最後は、自らの身を守る為に発砲し、D-フェンスは死ぬ。

だが、撃たれた方のD-フェンスが、思わせぶりな事を言って手を伸ばしたポケットに入れていたのは、水鉄砲だったのだ。言わば刑事の手を借りて自殺したようなものだ。彼はその直前、自分を恐れた妻が娘を連れて逃げ出した自宅で、一人ホームビデオを見ていた。娘の誕生日に買ったプレゼントを、泣き叫ぶ娘に押しつける自分の独善的な姿を、客観的に目の当たりにした時の、あの表情を見れば、自罰的な死を自ら選んだのも分かる。刑事が彼に言ったように、娘と妻を捕まえて、どうするつもりなのか自分でも考えていなかったのだろうし、刑事の言うように、最後には二人を殺す異常者なのかも知れない。この辺りは観客にも最後まで謎のままだ。

D-フェンスが軍需産業に勤めていた事や、妻への電話で、出発点から離れすぎて戻れなくなったスペースシャトルに自分を喩える所などに、米国の覇権主義への批判を嗅ぎとる事も可能ではあるが、彼の人物造形は、何かの象徴に出来るほど分かりやすくはなく、恐らくは意図的に曖昧にされている。ネオナチ男の黒人への差別意識には共感しないが、韓国人には、米国は韓国へ莫大な援助金を渡している、とか、「ちゃんと英語を話せ」と言ってキレる。国の為にミサイルを提供する立場にいた男だが、予算確保の為の不必要な道路工事には怒り、政府寄りとも反政府寄りとも言えない人物だ。この曖昧さ、不安定な揺れ動き、何らかの思想信条に身を浸しているような明確さは持たないが色々と不満はあるという立場。D-フェンスはまさに、平均的市民なのだ。

既に挙げた以外にも、社会批判的な要素はふんだんに盛り込まれている。「ベトナム復員兵だ」と施しを求め、若すぎるだろうと言われると「湾岸戦争だ」と言い直す男の台詞からは、いずれにせよ米国が昔から、戦争に駆り出された人間を大事にしていない実情を背後に匂わせる。D-フェンスの妻の元から去っていく女性警官の「だったらパトカー削減に反対票を入れてね」や、銀行前で「見た目で金を貸す相手を判断するな」と抗議する黒人、ネオナチ男のように、同性愛者や黒人、女性への蔑視を公言する者の存在、等々。だがそうした社会的不満と、気温の高さや、煩く飛び回る蝿など、べつだん政治的でも何でもないものへの怒りも、D-フェンスの怒りスイッチへの作用は大して変わらないようだ。そこがまた、いかにも平均的市民。ハンバーガーショップでは、朝食を提供する時間は終わっている、と言う店員に銃を突きつけて要求を通したすぐ後に、その注文を取り下げるが、要は朝食を食べる事自体は些細な欲求でしかなくて、どっちでもいい話なのだ。

この、ハンバーガーショップでの、融通の利かないサービス(あの店員の、型通りの笑顔!)、商品写真のようにふっくらしたバーガーが出てきたためしが無いという不満に対してブチぎれる場面は、観客が思わず共感して笑ってしまう場面だが、店内の客は、呑気に笑ってなどいない。この、当たり前すぎるほど当たり前な点が肝心な所だ。D-フェンスの不満に共感する所はあっても、実際に銃やバズーカをぶっ放す人間との間には、やはり透明な壁がある。だからこそ、道端でバズーカを撃とうとするD-フェンスに使い方を教えてやる黒人少年は、「映画で見た」と言い、「何の映画の撮影?カメラどこ?」と訊ねる。このやりとりは、どこかほのぼのとした雰囲気さえ漂うのだが、D-フェンスにやや共感しすぎているかも知れない観客に、少し頭を冷やせとばかりに、敢えて劇中に間を置いた場面、自己言及的でメタな視点を与えて、一瞬、素に戻してくれる場面と言えるのではないか。

刑事はD-フェンスに言う、「嘘だらけの世の中だが、今日お前のやった事は正当化できないぞ」。この最後の対決でD-フェンスは、刑事に向かって「今日は暑いな」と言い、彼に水鉄砲で水をかけてやって死ぬ。「保安官とならず者の対決だ」と、自分の立場を戯画化してみせ、「娘に保険金が入るな」と言って自ら死を選ぶ。この事をもって、彼が善人として死んだのだと言うのも無理があるだろうが、全くの悪人として終わらない道を選んだという事も否定し難い。全くの善人でも悪人でもなく、つまりはただの平凡な父親として死んでいったのだ。

この結末の後、刑事がD-フェンスの娘に優しく話しかけ、D-フェンスが娘や妻と笑い合い顔を寄せ合うホームビデオの映像が大写しになる。この、父親であろうとしてそれが叶わなかった二人の男が劇中に見せる、拳の振り上げ時に躊躇したり、振り上げた拳の降ろし所に迷う表情こそ、この映画のサスペンスであり、人間ドラマであり、主題そのものでもあるのだろう。

(評価:★3)

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