[コメント] トンマッコルへようこそ(2005/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
村人曰く「背の高い男が空から降ってきた」。冒頭の、連合軍パイロットのスミスの墜落シーンは、迫力あるカットを重ねてアクション演出のキレのよさをいきなり見せてくれるが、シーン中、スミスの眼前を一羽の蝶が舞っていくときのスローモーションによって、戦闘のさなかの束の間の夢のような時間が現出する。村での「戦闘シーン」である猪との闘いもまたスローモーションで描かれるが、このシーンで初めて、スミスも韓国軍も人民軍も皆、相異なる立場を越えて仲間になる。そして案の定、彼らが互いを識別しあい対立していた原因である軍服を脱ぎ、村人と同じ服装をすることになる。スミス救出任務を負った連合軍が村人に銃を向けるシーンでは、韓国軍と人民軍の兵士たちも「村人」として銃を向けられる。ここで初めて、自分たちが村にやってきた際に村人たちに対して銃を向けていた行為を、それを受けとめる側として体験することになる。
空から降ってくるものはスミス以外にも色々とある。不発かと思えた手榴弾を放り投げたせいで食料庫が爆発し、トウモロコシがポップコーンとして降ってくるシーン。連合軍がパラシュートで降下してくるシーン。トンマッコルへの爆撃を逸らそうと軍人たちが決意しあうシーンで降る雪は、彼らの頬をほころばせる。それはポップコーンが降ってきたシーンを想起させたからではないかとも思える。そして、戦闘機の群れとの闘いの果てに、満足げな笑みを浮かべて爆弾の雨を受けるシーン。逆に村から空へと浮上していくものもある。灯籠を夜空へ飛ばすシーンは、橙色の火という点で爆撃の炎と対応しているが、ラストの爆撃を村人たちが見つめるシーンは、悲劇性と共に、まるで花火を見ているような安らかさと祝祭性が漂っている。連合軍のパラシュート部隊が降下するシーンでは、村から白い蝶の夥しい群れが飛んでいき、連合軍らにぶつかっていく。白といえば、先述したポップコーンの雨や雪、そして知恵遅れの娘ヨイルが人民軍兵士の少年の頭に挿してやる白い花と連なっていく。この少年が、死んだヨイルの美しい思い出として想起するのも、彼女が雨を口に入れて嬉しそうにしている光景であり、空と地上の交感と闘いは、全篇を通して一貫している。そして、村を守った男たちが永眠する、白い雪に覆われた大地を捉えた俯瞰ショット、つまりは空からのショット。
トンマッコルは武器を知らない村だ。だが、闘いを知らない村ではない。対立しあう軍人たちが銃や手榴弾を手に一触即発の状態にある中、村人たちは普段どおりに平然としており、猪が畑を荒らしているという話を一大事として話し合いさえするので、軍人の方はますますいきり立つことになるのだが、ここで村人たちは猪をどうしようと話しあっているか。「目を殴りつけてやれば、帰った猪は仲間たちに『あそこは恐ろしい所だ』と知らせて、奴らは来なくなるだろう。お前が目を殴りつけられたらどうする?」「俺なら仲間と一緒に仕返しに行くな」「そうか、じゃ、これはやめだ」。闘いや復讐について話しあわれている。そして実際、猪との闘いが軍人たちを「村人」化することにもなるのだ。人民軍の将校は村長に、「怒鳴りつけずに皆を統率するコツは何ですか」と訊く。答えは「皆に腹いっぱい食わせてやることだ」。仕留めた猪を、村人たちは食べない。つまり猪退治は飽く迄も畑を守るためであり、しかも村人たちは「殺す」とは相談しあっていなかった。一方で軍人たちは、夜に炎を囲んで一緒に猪肉を食いあうことで、より仲間意識を強めることになる。ここに、村人たちと軍人たちの同一性と違いとの、微妙なあやがある。また、武器を知らない村で韓国軍と人民軍の将校が対峙するシーンで、人民軍将校が「血を見たいのなら鋭い物にしろ」と、手に持った鎌を見せるが、韓国軍将校が手にしているのは鋤。だがどちらも「武器」ではなく、農具だ。
とはいえ、映画そのものは明らかに村の平和の描写よりも、スミス墜落シーンや、猪退治、そして戦闘機と対空砲の決戦という、燃えないわけにはいかない戦闘シーンといった、平和と対照的なアクションシーンでこそ活き活きとした演出の冴えを見せる。食料庫爆破の責任を感じて、また行き場がないという事情もあって軍人たちは、収穫が終わるまで村を手伝うことになるのだが、長々と村に居るわりには、後から懐かしみ愛おしめるような具体的なエピソードは、特に何も無いのだ。スミスと村の少年のちょっとしたやりとりや、墜落機から撮影機を見つけ、それで村の祭りを撮るといったこと、若い韓国軍兵士による即席リサイタル、といった些細な出来事のみであり、全体的に、多分に漠然とした「平和で愉快な村」のイメージが垂れ流されているだけだ。村人同士の人間関係さえ、或る女と、それに恋慕しているらしい男の様子が、物語の端っこに垣間見える程度。ゆえに、エンドロールに入る際に、予想どおりにスミスの撮ったフィルムが流れたところで、こちらの涙腺が決壊することは残念ながらない。
爆撃を行なおうと連合軍が相談しあうシーンで、ひとりの黒人の軍人は、民間人の犠牲を考えない行為は無責任だと批難する。また、村にやってきたパラシュート部隊の一人、彼は韓国側のようだが、彼も居丈高に振舞っていたのがいつの間にかスミスの通訳として仲間入りしてしまう。つまり、トンマッコルで暮らしていれば、連合軍の軍人たちもやはり、殺しあう必要のない仲間となれたのではないかと想像させる。それならば、スミス救出という任務や、村の位置の戦略上の重要性を考えて行動している彼らの人間性にも触れないことには片手落ちになると思えるのだが、最後の戦闘シーンで、殺していい「敵」方の役割を与える都合なのか、人間性の欠片もない戦闘マシーンのような扱い。政治的な立場を拭い去ってただの人間として触れあえば戦争なんて起こらないさと言いたげなこの映画そのものに、そうした「演出」という名の政治が行なわれているのを見るのは虚しいものもある。
まぁ、個人的に、トンマッコルのように無知と素朴と平安の日々が延々と続いていくような場所は退屈すぎて、生きながらに安楽死させられているのと同じように感じてしまう、つまりまるで憧れを感じないという事情もあって評価しがたい面もあるんですが。
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