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[コメント] ゲルマニウムの夜(2005/日)

永久機関と代償行為、そして回心。
町田

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







その日の三回目の上映が終わる。本と映画との相違点について考えた。147分と短い映画では、本から幾つかの重要な要素が削ぎ落とされている。

一つ。本では院長、シスター、聴解神父、美少年は皆、白人で、舞台は基地のある神奈川だった。

二つ。夏の腐臭が無い。夏、秋、冬と推移する本に対して、映画は常に冬に留まる。

三つ。萬月がバタイユの『眼球譚』を意識し盛り込んだと思しき<球体幻想>が、大幅に縮小されている。

一つ目について。本では、白人は、支配者だ。そして豚を表している。いと臭き者として描かれる。犬は、日本人だ。終戦以後、我々日本人は支配者たるアメリカさんへのご奉仕、手で扱き、口でしゃぶることで安全を保障されている。ロー青年の、神や支配者に対する涜神行為が、カトリックでもキリスト教徒でも無い、このごく平凡な日本人の股間をさえも燃え上がらせる、幾らかの原因は恐らくこの為である。

また本には重要な小道具としてゲルマニム・ラジオがある。ここからは米軍向けのナツメロが半永久的に流れていた。ロー青年は、これを永久機関だと誇らしげに語っており、鉱線のきつく巻かれたそれは、神の声の永続性と、修道院での円運動、そしてらせん状の豚のペニスを表している。更に最終的には美少年が裾に捲きつけたペニスに連結してゆく。

映画では白人は日本人に置き換えられている。即ち、モスカは佐藤慶に、セルベイは石橋蓮司に、テレジアは広田レオナに、ジャンは木村啓太にである。このことで、本にあった「ある」時事性はスポイルされ、体臭の目の眩むようなどぎつさも、豚の糞ほどに弱められた。それは確かである。確かなのでただ批判するのは容易である。重要なのは、この変更に、どんな心理を読み取るかである。ローが院長に云う台詞、「どうして白人は臭いんですか?」が、何故「老人」へと置き換えられたのか?

表題のゲルマニウム・ラジオと最初に繋がる、豚の交合シーンは、本では牡同士のものであった。らせん状のペニスが尻の穴から抜けなくなって、それで宇川君が切除したのである。映画では豚の性は不明である。しかし、「抜けない」のではなく、「入らない」のであった。勃起が足りないから、北君が扱いて遣る必要があったのだ。ペニスが切除される結末は同じであるが、抜けないを、入らない、に変更した点に、また特別の心理を読み取れよう。

二つ目。本は夏からはじまる。夏は腐敗の季節、蛆虫の成長期である。ロー青年は生き埋めにされた子豚の屍骸や、黄色化した鳥の屍骸に吐き気を催す。彼が季節、そして幾つかの行為を通して克服するのは、この腐臭への嫌悪、偏見であり、彼は白人少年の足の垢を嗅ぎ、凍った糞を意気揚々と片付けるのである。

映画は白一色である。それは死の予感に充ちている。悴み萎えた男根を連想させる。しかし、一方で、胎内、口腔の温かさを、より切実なものへと昇格させる。白人を配置することを放棄した映画である、今更夏を残したところで片手落ちだ、ここに一貫性を感じた。

三つ目。球体幻想である。即ち鶏卵、満月、睾丸、眼球などだ。如何にも文人らしい、萬月のちょっとした遊び心である。映画では、この中で、露出する白い睾丸と、バットで飛び転がる眼球とは、省略されている。これは単純に、活字と映像メディアとの差異であろう。

映画はなんでも写しさえすれば、それで良いというものではない。映画が代理に何を用意したか。それはいわずもがなの足であった。ブニュエルトリュフォーの映画がそうであるように、この映画には官能的な足が多く登場する。ロー青年に絡みつく教子の膝やつま先、僧服から覗くシスターのふくらはぎ、トオルの足裏、更には蓮司の毛むくじゃらの太股までが、カメラに寄る執拗な愛撫を受けている。

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(続く。)

(評価:★3)

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