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[コメント] ランド・オブ・プレンティ(2004/米=独)

ヴェンダースの作品は幾つかしか観ていないが、彼が「社会」や「国家」といった大きな主題を扱うと、大掴みで図式的。個人的で小さな主題に収束させていくと、余韻の残る良い作品にしてくれるんだけど、今回は収束し切れなかった。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ラナがチャットをする場面や、ポールが、ベトナム戦争で上官と交わした会話を一人で再現する場面、彼がラナの母親、つまり彼の妹の手紙を読む場面など、他者の言葉を自分の肉声で口に出す描写が、印象に残った。それは、チャットの場面で、どちらが打ち込んでいる言葉なのか分かり難かったのがきっかけだったのだが、これは(深読みのし過ぎな気もするけど)、相手の言葉を自分の中に飲み込む、という意味合いが込められていたのかも知れない。

ポールとラナが、亡くなったアラブ人の兄の元に遺体を届けに来た場面で、最初、そこの住人である女性に、窓越しに双眼鏡で監視されている所など、不審者を追っているつもりのポールが、実は他人から見れば彼自身が不審者なのだという、視点の切り返しが見えて面白い。この女性が、ポールと同じ白人だというのもポイントだろう。彼らは、「外部」からの侵入者に怯えているのだ。

「見る」事は、他人との距離によって成り立つが、「聴く」事は、逆に距離を埋める行為だと言えるかも知れない。

とはいえ、最後にグラウンド・ゼロで、犠牲者たちの声無き声に耳を澄ませる場面は、僕には殆ど何も響いてこなかった。これに先立って、ラナとポールが9.11の時の事について語り合う場面は、「映画の最後に説明的な台詞でテーマを短絡的に図式化してしまう」という、何ともありがちな形でヘタを打っている。何かこの映画は、最初から、ヴェンダースの描いた図式に綺麗に収まり過ぎている観がある。予定調和無き世界をいかに生きるか、という切実さが、この映画には希薄だ。思えば同監督の『東京画』でも、図式に捕われた監督の、徹底的に外側に立った視点に憤りを覚えたのだが、この映画を観たアメリカ人は、どう感じたのだろう。

アジトだと思い込んで「突入」した家で、米国旗と、孤独な老婦人を発見するポールが、老婦人から「コントローラーが壊れて、テレビのチャンネルが変えられない」と訴えられる場面は、ちょっと皮肉が感じられる。テレビに映されているのは、案の定、テロとの戦いについて演説するブッシュ。老婦人は、「ボリュームしか変えられない」と言う。これはつまり、“今の米国では、同じメッセージしか聞く事が出来ず、それに対しては、耳をふさいで聞かないようにする事くらいしか出来ない”という暗喩だろう。そして、当てが外れたポールは、テレビをひと叩きし、チャンネルを変え、老婦人に礼を言われる。そのポール自身、テロリストとは何の関わりも無い光景を見、頭をガツンとやられ、そこから視点が徐々に変化していくのだ。尤も、その辺の葛藤こそ真に描かれるべき所であったのに、曖昧なままはぐらかされた印象なのが残念。

(評価:★3)

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